« October 2005 | メイン | January 2006 »

December 2005 アーカイブ

December 5, 2005

水が流れる場所。

川でも雨どいでも、自然界に於いて水が流れる場所には、ほぼ必ずルキセニア[lukisenia]が生息する。ルキセニアの生態は長らく解明されていなかったが、近年多数の地道な実地調査の結果、水場、特に流れのある水場にはほぼ100%生息しているだろうと考えられている。しかしながら未だ謎は多く、研究者の間では「幻惑の生命体」と呼ばれている。極めて弱いルシフェリン‐ルシフェラーゼ反応が観測されその存在が知られるようになったわけだが、未だ正式分類にも様々な説があり、混沌を極めている。ルシフェリン‐ルシフェラーゼ反応自体も微弱なため、流水上に見られる煌きを光の反射であると主張し続けている学者が今もって少なくないのも事実である。ルキセニアが何故水が流れる場所に生息するのかは未だ研究中であるが、最新の研究では、穏やかな湖面でも浅い水溜りでも、何らかの衝撃でその水に流れが生じると、ルキセニアが発生することがわかっており、更には、人体内に取り込まれた水分に人体内で流れが生じたときにも発生(もしくは潜伏後発生)する可能性があり、注目を集めている。一説には、体内で異常繁殖したルキセニアこそが若年層、特に思春期の若者が患うという原因不明の動悸、浮遊感、のぼせ、焦燥感、と関係があるのではないかとも言われており、人体への影響について、現在世界各地で日々研究が進んでいる。


December 3, 2005

アカイハナとのしての一日。


そう、最初に光など見えない。漆黒が徐々に徐々にその重みを減らし、やがて群青に、やがて白に。濃密だった空気が軽やかに拡散し、そして、朝。朝が、来る。知らぬ間に東の空が散らすのは面としての光。柔らかな薄い赤オレンジ色に、眠たげな世界を起こす。あたしは少し億劫になりながらも夜の粘る記憶をゆっくりとゆっくりと、必要以上の丁寧さでもって振り払い、またしても太陽で区切られた新しい一日をぼんやりと想う。そう、朝だ。朝。朝。


太陽が表情を変えながら照らす間、あたしのからだは自動的にその恩恵を惜しみなく受ける。厭う、厭わざるに関わらずいつでも心なしかシャンと姿勢が正されるのは、生理学的に考慮すればきっと宇宙的法則の中に組み込まれた一つの微細な論理の欠片として揺るがない説明のつくことなのであろう。現実的に生き抜くための現実的な作用。からだはあたしが想っている以上に多分正直だ。それでも雨の日を只長く欲望するのは、その滴りが光とともに現実作用の両輪を成すからではなく、腐朽への恐怖を抱えながら醜悪に膨張する細胞や、不安定に揺らぐ土壌を差し引いても、やはり濡れるアカが戦慄的にエロティックだからだ。ときに凶暴なほどに殴りつける雫一つ一つに大きく撓りながら、あたしは危機の淵でいつだって微笑むだろう。


太陽の照る日も照らない日も、いずれにしろ無関係に風は気紛れに撫でる。あたしはその天才的な緩急のつけ方に感動する。絶対的な悦びの中であたしは震えるしかない。激しく渦を巻き吹き荒ぼうとも、それもまた一つの優しさの形。太古よりの遺伝子は囁く。そう、それはひたすら与える。そこにあるのは風とあたしという点であり、その間を繋ぐのはひどく一方的な矢印の筈なのに、あたしたちはそんな悲劇的な形は捨てて、替わりに丁寧な線をひく。そう、風はいつでも地平にある全てを平等に撫でる。そこには区別すらない。ひたすら与える。只悦ぶ。やたら喧しく羽根の音を鳴らす虫々によって、綺麗に発色したアカを舐めるように品定めされ乱暴に吸われるとき、あたしは決まって風媒だけで生きられたら、と夢想する。無論ギブ・アンド・テイクも、その簡潔さ故割合性に合わなくは無いのだが、然しせめて虫々も、もう少しだけでも知的な吸い方をできないものかと想う。妄想は留まる事を知らず、あたしは彼等の冒涜にじっと耐える間中、風媒花である自分の一生分の物語を緻密に作り上げる。けれどもその物語を紡ぎあげた後になっていつも、あたしはそしたら色褪せるだろうこのアカと、崩れ逝くであろうこの繊細かつ悠然と広げられたカタチを慈しみ、思い留まる。退化は無情だ。この世界に於いて美しさは取引の条件に過ぎず、それ以上でもそれ以下でも無い。ならば耐えよう。むしろ逆手に取って狡猾に惑わし利用し尽くそう。あたしの思考はいつも一回転し同じ地点に落ち着く。いつものことだ。そう結論づくとあたしは一層自分が艶を帯びるような気がする。全ては一つの荘大なゲームで、あたしの思考すらそれに含まれているのかもしれない。だとしても構わない。あたしは鮮やかにアカく、風は官能的に撫でる。充分だ。


寄り付く虫々の顔ぶれが徐々に変わる頃、世界はまた色に染まる。夕暮れだ。その色は日々調合師の機嫌によって変化し、けれどいつでも確実に美しい。同じ日の夕暮れであっても、その色は時間の経過とともに変化する。所謂夕暮れ的な暖色で構成されたような明るみも悪くないが、その夕暮れから夜に変化する過程のあの深い藍や紺碧の空がひどく好きだ。このアカは暗めの空によく映える。丁度その薄暗い空が濃密さを増す頃、東の空には月がその姿を現し、星も点々と瞬き始める。然し夜はその訪れを月や星や暗さではなく、いつだってそのしんと引き締まった空気で知らせる。冬でも夏でも夜の空気の持つ根本的冷酷さは同じだ。いかにすればあのように空気を分子の状態に分解し、更にそこに整然さと毅然さとを同時に孕むことが出来るのだろう。然し凛とした暗闇の中で起こることは全て逆に何故だか無用に纏わりつく。絶対的孤独を見せつけられたあたしたちにできることは、解り合えぬままそれでもじっとりと距離を縮め、巧く騙し合いこの夜をやり過ごすことしかないのだろう。独りの夜は続き、あたしは羽根を休めた虫やそよぐ斜向かいの細長い草々と踊る。なるべく艶やかなリズムで。踊る。踊る。踊る。

同じような一日は一日としてなく、全く違う一日も特にない。繰り返される一日は多分ひどく似ていて、けれど何かが決定的に違う。朽ちるまでそれは繰り返され。永遠などという陳腐な言葉さえ使ってしまいそうだが、それは恐らく刹那と同義だ。とりあえずあたしは咲き誇る。世界に対峙するようにこのアカを。アカを。咲き誇る。もうすぐだ。ほらもうすぐ。太陽がまた新しく一日を仕切るだろう。咲き誇れ。咲き誇れ。咲き誇れ。咲き誇れ。咲き誇れ。咲き誇れ。咲き誇れ。咲き誇れ。咲き誇れ。咲き誇れ。咲き誇れ。


About December 2005

December 2005にブログ「memorandum」に投稿されたすべてのエントリーです。

前のアーカイブはOctober 2005です。

次のアーカイブはJanuary 2006です。