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January 2006 アーカイブ

January 19, 2006

踊るように書き、歌うように喋るのが、スキ


あたしは文章書きとしては決して器用な方では無い。

そんなことはいつも「書く」前からわかっているし、「書く」途中でもわかっているし、「書く」のが終わったあともわかっている。というか、そもそも文章以外のなんでもなんだって、大事に思っていることに関しては器用な方ではまったく無い。カッターでまっすぐに線を引けないように、真っ当な恋愛を丁寧にこなすことができないように、地図でいう「上」が道路上では「直進」である、ということがわからないように。器用なことは、そうだな、ほんとうにどうでもいいと思ってることだけ。たとえば仕事。ビジネスメールの処理と、専務のスケジュール管理と、ガイジンさんのアテンド。そういうことは、とても器用にできる。きっとどうでもいいと思ってるからね。でも大事に思うことは何一つ思うようにできないし、大事に思うものはあわあわしてるうちに全部失くす。だから一度、いろんなことを「どうでもいい」と仮定して、どうでもいいことやものとして処理することにした。そうすれば器用にできると思ったから。でもあたしは忘れていた。あたしは、『「どうでもいい」と自分自身に思い込ませる器用さ』を持ち合わせていなかったんだった。ありゃりゃりゃりゃ。なんて単純でなんて哀しいこと!

話は戻るが、そういうわけであたしの文章はいつも足りない。見えてる映像の、聞こえてる音楽の、そういうカタチを取らない七色のゼリー状の全ての原型みたいなものの、ほんの一部ですら、あたしは全然正確に説明できない。(それにはひょっとしたら「コトバ」の持つ本来的なセイシツみたいなのが少しは関わっているのかもしれないけれど、なんとなく違う気がしてる。それは「コトバ」の落ち度ではなく、大部分はこの脳みその落ち度だ。)

ちなみに喋ってるときの状況はまた少し違う。

あたしは喋り手としては器用とか不器用とかという範疇を超えている。(ところであたしは「葉」という漢字が好きなので、「喋」という漢字も好きだ)だってあたしは少しでも調子が悪いとぴたりと喋らなくなってしまうから。あたしは黙ることと、その場からふいっ、といなくなってしまうことが得意だ。(あ、それは器用にできるかもしれない)それか逆にどうでもいいことをひたすら喋り倒すということもある。嘘はぺらぺらぺらとこの口を簡単に滑らせる。うそもほんとうも下ネタもダジャレも大きく口を開けて笑って腹を抱えて喋ってれば、みんな安心して納得して仲間に入れてくれる。仲間に入れてもらうのは実は嫌いなわけじゃない。淋しがりやだからね。


そんなあたしなので、実際、いい文章書きやいい喋り手になるのは相当難しいと思っている。だからあたしはそんなもの無謀にも目指すことはをすっぱりさっぱりきっぱりやめたいといつも思っていて、たとえばあたしが、世界や、大事なキミや、遠いアナタに語りかける最も有効な手段について、かつてはいろいろと思考し試行したものだった。

けれどもびっくりすることに、あたしは本物の不器用ちゃんだったのだ。

絵はクロッキーも水彩も油彩もパステルもアクリルも何もかもダメだったし、歌はすぐにピッチを外す。ダンスは振りつけが絶望的に覚えられないし、ノコギリは手を切り落としそうで使えない。立体的にものを見るのが苦手だし、手があまりに小さくて、楽器は何やってもうまくいかないし、機械音痴だし、運動神経は怖ろしく悪いし、体力は養命酒の購入を既に考え始めているほど、無い。


悪い文章書きのあたしは、ここでいきなり結論に飛ぶ。

あたしは、踊るように書き、歌うように喋るのがスキだ。


なにもできないことがよおくわかったあたしは、結局それでも文章を書くことや喋ることを大事にすることになってしまい、それなりの気持ちでそれらを続けてきてしまっている。けれど「名文だ!」「名セリフだ!」なんてことや、「流麗な文章からは細やかな情景が浮かび上がってくるよう!」「嗚呼!サガンの生まれ変わりのYO!」「ワオ!頭のいい喋り方とはこういうことネ!」なんてことは言われなくてもしょうがないなあ、と思っている。だって何しろあたしはコトバの中身を正確に誰かに対して、説明することが器用にできないから。「ひとりよがりの文章は最低です!」、とブンショーキョーシツでもハナシカタキョーシツでもきっと言われるのだろうけど、その場合あたしは最低だ。まじで。けど最低なら最低なりにやってくしかないと思う。そこから最高を目指すのはタイヘンで、あたしはただでさえいろんな意味でタイヘンなことに巻き込まれやすい人生だし、そもそもタイヘンな性格なので、正直もうタイヘンなことはあんまり増やしたくないのだ。今のところ。(それでもいつかタイヘンでもいいからちゃんとしたい!と思って頑張るときが来るかもしれないけど。)


んじゃ、どうしよう。どどどどどーしよー。いかに書き、いかに喋るか。


あたしはうんうん考えて、うーん、わからん、と思った。でもやっぱりコトバはスキだなあ、とも思った。
そのうち。
考えてるうちに、あたしは楽しくなってきた。
それで結局、あたしは自分が一番楽しくなることを追求することにした。
あたしは他人にも自分にも甘いのだ。


あたしが一番楽しいとき。それは、よく、このカラダが知っている。
多幸感というコトバが大袈裟でなくなるとき。
それはいつも、あたしが踊るように書き、歌うように喋っているときだ。
実はこれはこれで、いつも器用にできるわけではない。自分のコンディションがよかったり、海が奇妙な色だったり、スキな人からいい匂いがしたり、そういう特定された状況じゃないとしようと思ってもできない。


でも、できたときのあたしは無敵だ。ほんとうに。
あたしはほんとうに世界を台無しにすることができるし、分裂したり胞子を飛ばしたりしながら、空を飛ぶことも出来る。その間だけ、あたしは欲しかった宇宙を丸ごと手に入れる。


昔、「右手首のダンス」という遊びを思いついて、右手首だけで踊って、その踊った軌跡をその右手に握ったペンでノートにひたすら記していたりもして、それはそれですっごくエキサイティングな遊びだったのだけれど、「踊るように書く」ことはそれとはまたちょっと違う。「歌うように踊る」のも決してアイルランド人のように喋ってる音程がたりらりら~たりらりら~と絶えず波打つというわけではないし、ミュージカルとかオペラは、例えにすら挙げられない。

「踊るように書く」というのは
書いているときのあたしの状態が踊っているときの状態とイコールであって
その結果、文字も文脈も行間もコトバも何もかもが。
ダンスである、ということだ。
「歌うように踊る」というのは
喋っているときのあたしの状態が歌っているときの状態とイコールであって
その結果、文字も文脈も行間もコトバも何もかもが。
うたである、ということだ。

え、え、え、え。じゃあ、何?どんなの?「踊るように書き、歌うように喋る」って結局どういうこと?ていうか、なんで「踊るように書き、歌うように喋る」なの?なんで?なんでなんでー?

ね。ほら。悪い文章書きのあたしは、大事なことは何一つきちんと説明できやしない。

バッラービレ。踊るように。
カンタービレ。歌うように。


ただわかることは。
あたしは踊るように書き、歌うように喋るのがスキで。
それが毎日のようにできていた奇跡の日々を今でも鮮やかに思い出し。
少しでもその魔法を取り戻してあの多幸感を味わえるように。


今日もまた。
いくつものステップを想い、いくつものメロディーを想っているということ。


もうすぐ、もうすぐ。きっと震えるほど楽しいよ、また。

January 10, 2006

ホテルが、スキ


ホテルというものはなんて便利なものなのだろう、と思う。


たとえばなんの用意もしていなかったとしても。
少なくともそこにはあたたかなお湯があって、それなりに大きなベッドがある。
テレビもあって暖房もある。
シーツは白く、バスタオルは清潔そうに畳まれて、
バスローブや浴衣が他の物よりちょっとだけウカレた感じで置かれている。

世界の果てにいると信じて疑わない、駆け落ちした恋人たちにも
お金で買った思い出を、買えないものに見せかけようと必死な家族にも
言い訳だらけのみっともない久しぶりの2人にも
探し物が見つからず座り込む1人にも


全てのヒトに平等に。
ホテルの部屋は、ただそこにきちんと、ある。
きちんと。

それはとてもとても幸福なことです。


もちろん「ホテル」にはちょっと違う感じのところもある。
けれどあたしはそういうのは厳密にはホテルとは呼ばない。
それらはユースホステルだとか宿だとかジャングルだとか
もっと別の名前が与えられる場所のはずで
あたしがホテルと呼ぶのは

最低限の清潔な、そしてきちんと孤独な部屋を用意しているところだけです。


ホテルの部屋に入った瞬間
あたしはいつも
そこがもうあたしやあたしたちのためだけの1つの宇宙のような気がしてしまう。
とてもとても孤独でいとおしい宇宙。
前にも後にもその部屋では入れ替わり立ち替わり人々が過ごしているはずなのに
その感覚は揺るがない。
それはとても奇妙なことです。

でもきっとそれは
ホテルの部屋というところが

日常からは、決定的に遠いところだからだと思います。


自分の部屋のようにも馴染めず、他人の部屋のようにも浮きもせず。
ホテルの部屋はそういう比較とは違うレヴェルで。
静かに小さな宇宙を内包する。
日常から遠いその小さな小さな宇宙では
実に様々なルールが失われる。
それはその宇宙で
日常やら現実やらを背負い込むこの疲弊した世界を
甘く丸め込む魔法が通用するからです。

全てをシンプルに祝福する魔法。
あたしは
その勘違いの宇宙で通用する魔法を愛す。


あっち側。

全てのルールを超えて、純粋に欲望する、あっち側の宇宙の象徴としての魔法。


たとえば好きな人の家の、好きな人の匂いのする、好きな人のベッドで眠ることは
もちろんとても心地よく、泣けるほどに安らかなことです。
なぜならその延長線上にははっきりと日常があるから。
そして日常はいつだって。
素晴らしい頑強さとしぶとい健やかさを携えて
最終的には何にも負けずに流れていくのです。


けれど
一緒に生きていきたい人と一緒に死にたい人とが時として違うように。

たとえば日常というこっち側にあたしがしっくり馴染めないのだとしたら。

あたしは甘やかな魔法に。小さい宇宙に。
あっち側に、しばらくは属していようと思う。
少し遠いホテルで、このやたら寒い季節が終わるまで、しばらく暮らすように。


それにあたしは知っている。
とても簡単なきっかけで、あっち側はこっち側にもなる。
それはホテルの部屋の壁越しに、キスをするのとおなじぐらい簡単なこと。
こっち側とあっち側が楽しげに入れ違うとき。

邪魔なルールは全て溶け、魔法は全ての部屋で起こる。

そうやって。世界は台無しになるのです。とてもとてもいい意味で。


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