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October 2005 アーカイブ

October 31, 2005

季節の恋が、スキ

ようやく。ようやくまたやってきた。

そうして少しずつ少しずつ
私はまた寒い季節の中で生きる方法を思い出すのです。

夏の恋と冬の恋は違う。


夏の恋より冬の恋のほうがずっとずっと切実で。
或いはそれには最早「好き」という表現は適さないのかもしれません。

それはどちらかといえば

「好き」ではなく「必要」という概念に近いような


その場合、好きと必要のどちらが上位かと言うと、それはまた難しい問題なのだけれど。
多分それは上位とか下位ということではなく、ただただ異質なのだと思います。

夏の恋(即ち「好き」)と冬の恋(即ち「必要」)。


夏の恋は依存しない。


茹だる暑さの中であたしたちは毛穴を開くように自らも開く。
あたしたちは個体として自足した状態で出会い
独立した固体同士がすえた臭いの中で
体液と汗となんかいろいろをその境目にどろどろと恥ずかしいほどに垂れ流し
なるべくぐちゃぐちゃになりながら


でも、暑いから。
だってこの暑さなら本当は1人で物憂げにしているくらいが丁度いいから。

だからあたしたちはあくまで二つの別の個体であり続ける。
そしてだからこそ艶やかなもう1つの個体に欲情し
セクシーな駆け引きを悦びとして楽しむのです。


これが、「好き」ということ。
健やかな人生と完全な個体を得た上での、人生の最たる悦びとしての恋。


夏の恋はそれはそれは野性的で動物的で短絡的でえらく野蛮なようですが。

あたしには
それは人間として、実に成熟した行為のように見えます。
身体機能や精神構造が依存しない、純粋な快楽としての恋。
そんな恋を楽しむということは
それはむしろ大人な、文化的な、インテレクチャルな行為なのではないかと。
(たとえば本当に殺気立った生殖行動の一環としてのものならそれはそれでまた話は別なのだけれど。あくまでそうでなくて、海と太陽とキャミソールとと強めの香水と汗疹と日焼けと蚊と西瓜に彩られたハッピーでサッドなシンプルでセダクティブなそんな恋のことね。)

一方冬の恋は、いつも本質的に苦しい。

まず考えて欲しいのはなんてったって寒いということだ。

1個づつの個体としてのあたしたちはとにかくあまりの寒さに震えあがる。
それは着込んでも着込んでもホッカイロを貼っても貼っても
いつまでも解消されない五臓六腑の奥の方の問題。
底冷えの底がどこなのか
そんなひどく抽象的なことをやたらリアルに感じ取れるような
余計なほどに研ぎ澄まされた寒さ。

それであたしたちは抱き合う。だって寒いのだもの。死ぬほど寒いのだもの。

そうしてあたしたちは、補う。
この1個の個体では解消されない問題を、物理的に解決する。
依存しあうことによって。あたしたちはお互いの熱を頼りに生き延びる。

けれど身体の依存はそのまま精神の依存を導き
キミはいつのまにかあたしの一部になり、あたしは当然のようにキミの一部になる。
固体を固体で補っていると、固体の一部は急速な熱によって液体になってしまい
あたしたちは本質的にとろとろになる。
とろとろとあたしたちはお互いの境界を越えてとろりと浸入する。


ほらもうこんな風になっちゃうとさ。
ほんといろいろめんどくさいよ。


一線を引くからそれはクールでホットでファンキーでエレガントで
別々の個体だからあたしたちはキュートなチラリズムで押して引いて引いて押すのに。


だってもうこれは「好き」ではなく「必要」だから。
もうあたしの一部はキミでキミの一部はあたしだから。
全てが切実で、いろいろ苦しい。
何より独りで生きていけないのは惨めだし、幼稚だ。
それにどうしたって哀しいし、垢抜けないし、やたら足掻くから醜いし、何もかもぎこちないし、


そして全てを台無しにしてしまうほどに見事にあたたかい。


そのあたたかさに
あたしたちは少しだけ泣くでしょう。
苦しくて辛くて悲しくて嬉しくて気持ちよくてとかじゃなくて。

ただそのあたたかさに泣くのです。

そう。

そういう季節がすぐそこまでやってくる。
あたしは楽しみにも思うし、ちょっと身構えもする。


季節に流されて、それか季節に抗って
いずれにしろ。


季節のせいにして恋をするなんて。

なかなか悪くないと思うのです。


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