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ヒトの匂いが、スキ


そもそもの始まりに、あたしがどうしても気になってしまったのは。


そのヒトが
匂いというものを全く持っていなかったからなのかもしれません。


匂いがない、というのは
ひどく奇妙で、
少し哀しく、
でもちょっとだけその無機質な温度に憧れてしまうような、
とにかくヒトとして不思議な状態でした。


わざとあたしに何の痕も残さないように


そう、それは
そんな優しい悪意さえ感じさせるような揺るがない事実でした。

あたしはそれがどうしても気になってしょうがなかったのです。
本当の匂いを、知りたくなってしまったのです。

だからその日。
おんぼろ電車の終着駅で
そのヒトからいつしか、
匂いが放たれていることに唐突に気付いたとき。
あたしは
そのヒトがそうやって匂いを醸すようになったことが
もうちょっとだけ意味なく泣き出しそうになるくらい
とにかく、自分でもびっくりするくらい
ひどくひどく
すごくすごく
ひたすら嬉しかったんです。


懐かしいような、懐かしい植物のような、
そんな匂いでした。
まあ、これは半分デタラメですけど。
だって、どうせ、伝わりませんから。


あなたからはどんな匂いがしますか?


あたしはずっとアンチ香水派でした。
ヒトにはヒトそれぞれ固有の匂いがあり、
それを愉しまずにどうする、と
断固主張していました。
ちなみにあたしは赤ちゃんの匂いがする、と言われました。
ミルクの匂いがする、とも。
自分ではよくわかりませんが、そういうのを聞くのは楽しいし、
なによりなんだか匂いを残すことが
動物的に必要な作業だと強く信じていたのです。


だけど匂いというやつは結構厄介で。
思っているよりずっと密やかに世界を侵食していきます。
気づいたときには、もう手遅れなんです。
視覚やら聴覚やらよりずっと曖昧な嗅覚のその記憶は
曖昧さゆえに
ぼんやりと、そう残り香のように
いつでもゆるく、今日をしばり、
そこにある喪失を静かに浮き立たせるのです。
頼るべき匂いがここに無い、ということは。
そのヒトがいない事実を
多分一番遠廻しに
けれど一番絶望的に
内臓の奥にしこった塊の疼きのように
静かに確かに突きつけるのです。

ヒトの匂いを頼りにしてきたあたしが
その頼るべき匂いを亡くしたときに
行き着いたのは自分を匂いで飾る行為でした。
もともとの自分の匂いは、多分
案外タフな日常生活をきっちりやり抜くには到底弱すぎるのです。


キレイなボトルに収められたいくつかのお気に入りの香水たちは
その種類の異なる甘い匂いで
あたしの混乱をいっそう混乱させることで解決させます。
その作用はいつでも脱力か興奮か
その両極を彷徨います。


香水に助けられることは、もう最近では数え切れないほどで。
ポーチに忍ばせたそのミニボトルは
ピルケースに眠るカプセルと多分とても似ています。

だけどたまに
本当にたまに

鼻腔の記憶が懐かしい匂いをナンカのはずみで思い出すとき

あたしは久しぶりに
混乱を安堵でほぐしてもらいたいと
そういつだって願ってたことを不意打ち的に思い出し
どうしようもないくらい途方に暮れてしまったりします。


そのままのあたしの匂いと
そのままのキミの匂いが


ただここにあればそれだけでいいはずなのに、と。

だから、今は香水に頼っている日々でも。
あたしはなるべく自分の匂いを大事にしたいと思っています。
できることなら、そう、キミが知っていた匂いのままで。
この匂いで、新しい匂いにも、古い匂いにも
いつだって出会いたいと思うのです。


その匂いは、お金ではきっと買えないから。
いつかのときのために、いつまでだって大事にします。


それがあるいはいつか老臭に変わってしまったとしても。
それでもその匂いであたしを
誰かがみつけることができるように。

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December 17, 2003 5:27 PMに投稿されたエントリーのページです。

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