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たとえばなしが、スキ

完全にして超マッチョな硬派無宗教唯物論的思考が蔓延する我が家に生まれながら
何故か中高6年間というシシュンキの全てを
期せずしてプロテスタントの学校で過ごしてしまったのですが
(都内の中高一貫の女子校は、得てしてお嬢様学校感を演出するためだけに嘘でも何でもキリスト教色を強めがちです。キリスト教って、なんかヨーロッパで、なんかステンドグラスで、なんかマリアさまで、なんか歌もうまくハモってて、なんかこう、オシャレじゃない?ってきっと一般的教育ママ推定35歳前後VERY読者が思うからなのではないのかしら。あたしは知り合いのオネーチャンが行ってて、滑り止めに受けたら他全滅したってだけの理由で行ったんだけど。)


キリストの唯一にして最も尊敬できるところは
たとえばなしが得意だ、というとこです。
善と悪を、罪と罰を、兄と弟を、男と女を、都合のいいことと悪いことを
動物や植物や食べ物や人やものやその他いろいろなものに。
瞬時にたとえて説明する能力。
それは褒めてやってもいいかな、と思います。


たとえばなしが、スキです。ずっと昔から。

あたしはすぐ混乱するうえに
ヒト話の核ではなく周縁の方にやたらめったら気が散ってしまい
それについてぼんやり考えているうちにヒトの話がずんずか進んでしまい
気がつくと「聞いてないでしょ」と呆れ顔で顔を覗き込まれることが多いので
たとえばなしはとてもありがたいと思います。

ある事象を簡略化し、わかりやすくするためのおはなし。
複雑な世界の法則や抽象的で高尚なイメージを
ときに低俗な物言いでやっつける。
その本質をぐっと取り出し、違うもので説明しようとする試みは
それだけで楽しくウキウキします。
それにたとえばなしはそれをするヒトの趣味やセンスや生き様が零れてしまう。
だからあたしは嬉々としてたとえばなしに耳を傾けるのでしょう。

でも本当にスキなのは実はその向こう側のことだったりもします。

たとえばなしでたとえられるために持ち出されるコトやモノというものがあって。
タナトスをパンツにたとえるのなら、パンツ。
エキピロティック宇宙論を千枚漬けにたとえるのなら、千枚漬け。
スタニスラフスキーシステムを林くんの淡い失恋にたとえるのなら、林くんの淡い失恋。

そっち側の、コトやモノたちの行方。

たとえばなしがありがたく
その語り手の人生を覗くのが面白いことももちろんなのですが
それがちゃんと心に響いたとして、そのあとのあたしの日常のおはなし。


あたしは今度はそのたとえばなしによって
新たなものがたりを獲得するのです。正確に言うとあたしではなく、そのコトやモノたちが。
次の日からあたしは
パンツを見てタナトスを想い
千枚漬けを見てエキピロティック宇宙論を想い
林くんの淡い失恋を見てスタニスラフスキーシステムを想う。
そんなことを想うのは、きっとその場にいるヒトたちの中であたしたった一人だけで
それはうっとりとするほどセクシーな行為なのです。

そしてそのうち。しばらくこの悦びに浸っていると。
もっと危険な新しい遊びが始まります。


今目の前にある冷えたツナサンドはいったいどんなたとえばなしに使えるのだろう?
正しく置かれた伝票は?
さっきから通路に落ちたままのおしぼりは?
満足そうにソーサーに横たわる丸みの強い燻し銀のスプーンは?
ここで腿に乗せたPCにひたすら文字を打ちこむこのあたしの行為は?
もう6回も目が合った隣の男の子の履いているビンテージのプーマスニーカーは?
奥の席で熱心にエステの勧誘のコツについて語る男のやたらと目障りな左手の動きは?
それを聞いて頷き続ける栗色の髪の女の子が睨むように大きな瞳で店員を追うのは?


これは なんの たとえばなしに 使えるのだろう?
これは どんな 世界の秘密を わかりやすく 説明するのだろう?


そんなことを考えるようになるわけです。なんてことない風景をぼんやりと見遣りながら。
通常は脳内処理を行う前に振り落とされてしまうような些細なモノやコトに
拘泥して、留まり、遊ぶ。
それはなんて贅沢で、危険で、正しく病んだ、素敵な行為なのだろう。


全ての事象はなにかに酷似しているようで、それはやはり全く別のことだ。

けれど
ちいさなコトやモノに世界を見出すこと
すべてのコトやモノにものがたりを見出すこと

それは実は
予め定められたこの世界とここにある運命とを
根底から覆す方法なのかもしれない。

ミースの言うように、神は細部に宿るとして
(多分キリストとか八百万とか仏とかじゃないやつね)
そんなナンカの神に確かに手を触れてしまうような。
それで「踊ろうよ」ってナンパして「踊ろうか」ってスパークリングワインを呷って
そのリズムで世界を内側から台無しにして代わりに音楽で満たすような。
そんな健やかで蠢惑的なテロリズム。


日常を生きるときの些細なコトやモノはすべて

ドラマチックにその痕をこれ見よがしに残す大きな出来事と
重低音を轟かせやってくる運命と
なんだか勝手に周る世界と

実はきちんと繋がっていて、等しく素晴らしい。


大きなコトやモノと小さなコトやモノ。

等しく劇的であるということは、なんて感慨深いことなのだろう。

ほら。なんだか嬉しくて泣きたくなってしまうでしょう?
世界はどこかにあるのではなくてここにあって、神はここで腰を振って踊ってる。
想像することはいつだって自由だ。そうしてそれはやがて官能へと転化していく。

それは多分素晴らしくキモチイイはず。
世界はそうやって変わるし、そして変わらない。
どちらだとしても。

さあ。ところでこれは。

いったい なんの たとえばなしだったでしょう?


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September 16, 2005 5:54 PMに投稿されたエントリーのページです。

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