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yoridorimidori

May 18, 2008

居心地の悪そうなひとが、スキ

なんというか
自分はことごとくいつもマージナルな場所にいるなあと、思うことがよくある。


ジャンルや業界を好き勝手に行き来しつつ創作活動をしてみたり、
周りに似た例の無い職業ばかりに就いてみたり、
幼少期の記憶が日本語と英語ぐっちゃまぜだったり、
東京都の果てに住んでみたり、
ふるさとが無かったり、


グループにも業界にも土地にも国にも世界にも。どこにも。
属している感覚がとても薄い。
(だから特に「どこにも属したくないんだ!」とも思わない。属してないからね、元々。)
よそもの。ブガイシャ。異邦人。


そのため、
どこのコミュニティの集まりに呼ばれても、なんとなく中心の話題に馴染めない。
話題に馴染めないどころか、空気にも馴染めなくて、
そうなるともう何もかもわからなくなって、

どうやって立っていればいいのか、どんな酒を選べばいいのか、名刺交換とかむしろダサいのか、肩は見せるべきか隠すべきか、グロスは塗り直した方がいいのか、ハイタッチが今イケてるのか、


途方に暮れて、居心地の悪さを必死にごまかそうと
「あー。はいー。えへへー。なるほどー。」を適当に繰り返しながら、
ぼんやり他のことを考えながら時間をやり過ごすことしかできない。
いっそのことごまかさなければいいんだけど、
あたしはまだ未熟者だからなかなかそこまで思い切れず反射的に足掻いてしまう。
属セル?属セマスカネアタシ?
足掻いてしまうから情けなくて、
情けないからもっと途方に暮れて、
暮れているうちに置き去りになったあたしに気づかずに、
夜は噂話や裏話や批評やギャグや打算や恋を周到に加速させ盛り上げて更けていく。




だから、あたしは自分よりも数段居心地の悪そうなひとがスキだ。




あたしと同じぐらい居心地の悪そうなひとでは駄目。それじゃおんなじだ。
もっと正しく居心地が悪そうで、この世界にすらもっと正しく属せていないひと。
そういうひとがやたらと気になってしまう。


そういうひとは見ればすぐわかる。
そういうひとはソワソワもモジモジもイライラもしない。
そういうひとといってもいろいろいて、
会話も少なくて、ひとりぼっちでいることが画として美しいひともいるし、
精巧なマシーンみたく軽妙な受け答えが得意で人気者のひともいるけれど、
いずれにしろ、
そのひとの周りだけ空気は違う色をしていて、それはとてもわかりやすい。
その色を見逃さないことは、あたしのちょっとした特技だ。


思えばあたしの人生に大きな影響を及ぼしてきたひとたちは、
みんなそういう風に居心地が悪そうなひとたちだった。
粋がってこの世界に属さないのではなく、属せないことを受け入れているひとたちだった。
彼らはこの世界に正しく属せていない代わりに、
それでも生きつづけていくための魔法を持っていた。


その魔法が欲しくて欲しくて、見たくて見たくて、
あたしはいつもいつも抗えない引力で彼らに吸い寄せられていってしまう。
結局、あたしにだって、彼らは属せないのだけれど。


そうしてあたしの人生は、今でもそんなひとたちの魔法に支えられ続けている。




さて。
どうやったらもう数段、居心地の悪そうなひとにあたしもなれるんだろうか。
そしたら魔法も手に入る?


もっと居心地の良さそうなひと、もっと居心地の悪そうなひと。
サカイメにばかりいるあたしは、またその狭間で、結局途方に暮れている。

November 23, 2007

甘やかして、甘やかされるのが、スキ

最近
本気を出せば、結構一人でやっていけるものだな、と感じている。
なんだって、やる気になれば、あたしは割とできちゃうんだな、と。


いやいやでました勘違い娘それ自分が思ってるだけだってばほんと天然だわウケルー
というひとも
そんなことよく知ってますよ賢いデキルおねーさんじゃないですか何を今更改まって
というひとも
子供がいてもおかしくない年齢なのになにを馬鹿なことをほざいてるのまったく呆れるわ大人なんだから一人で生きていけなくてどうするのほんと子供でも産んでみればいいのよほら
というひとも
何を言ってるんですかあなた人という字を見てくださいほら支えあってるでしょ孤独なんてないんです人は一人では生きていけないほらそのお米はどこの誰がつくってると思ってるんですか
というひとも


いると思うけれどあたしが言っているのは多分
もうちょっと感覚的でもっと個人的で場合によってはずっと具体的なこと。




どんどんどんどん。


あたしが
誰にも甘やかされず、誰も甘やかさず、
それでもいつのまにか平気に生きていけるようになっている。そんなこと。




自立した大人としてなるべく多くのことを一人できちんとできた方がステキに決まっているし
それに結構その方が自分も楽だったりする。
自分の思い通りに自分が動けて結果を出せることは
それがたとえばお風呂場のカビを根こそぎ取ることだろうが
宇宙的に壮大なプログラムを書くことだろうが
いずれにしろ割と気持ちのいいことだ。


それなのに、甘やかされると、人はいとも容易く駄目になっていく。


できるはずのことだってどんどんできなくなる。
最初はたとえばいつだってやろうと思えばできたとことでも
みるみるうちに、本当にできなくなってしまう。
平気だったはずのことも
地道な訓練を重ねて平気だってことにしたはずのことも
あっという間にダメになる。
子供が親に甘やかされるのとはちょっと違う。
ずっと自覚的で、ずっと厄介だ。


年をとればとるほど、あたしたちは取り返しがつかない。


だから甘やかされない毎日や、甘やかさない毎日は、とても平穏で堅実だ。
自分もスポイルされないし、人もスポイルしない。
何も失わない。
そういうきちんと一人である人たちが二人一緒にいるということは
とてもバランスが良く、爽やかで、正しい。
一人+一人の二人。




だけどどうしてか。
性懲りも無く。
鬱陶しいほどに、あたしはあの感じに、今なお強く惹かれ続けている。


徹底的に甘やかして、取り返しがつかなくなるまで甘やかされて、
一人では圧倒的に足りなくなってしまうあの感じ。
正しさも健全さも微塵もなくて
ただみっともなくて我侭で無様な二人に成り下がっていってしまう、あの感じ。
なんにもいいことないけれど


それでも二人がそこにいるための揺るがない理由が明確にあるということは


それだけでちょっと羨ましいと思う。


それが短絡的だとか大人げないだとか絶対不幸になるだとか視野が狭いだとか頭が悪いだとか
言われるような感じだとしても




少なくともあたしは結構幸せだったから。






甘やかして、甘やかされた、むかしむかしのあの感じ。
むかしばなしになる頃には、またきっと。

June 10, 2007

疾走が、スキ

疾走というコトバが好きで。
その長続きしない感じとかも好きで。
たぶん疾走してるときの走り方ってどうしようもなくみっともない気がして。
正しいフォームとか、取れる筈なくて。
(だって、それは一つの病だから。疾走とは、走る疾患なのです。)


だからこそすごくキレイだと思うのです。
みっともないぶん、イトオシク輝くのだと。


でたらめな速度はムゲンダイで。
混乱したメーターは、振り切れると決まっているので。
めちゃくちゃに走ればそれに勝るスピード感なんてないのです。


育ち盛りの健康優良児が100mを走り抜くことと。
瀕死の使者が渋谷から日比谷へ必死で疾走すること。
60進法で整然と計られた数値は
最早おおっぴろげに投げ出されたみっともなさの前ではあまりにも儚く

疾走する。疾走する。
それはとにかく魅力的なスピードなのです。



(ちなみにスピードに乗って声に出して言ってみましょう。
 「瀕死の使者が渋谷から日比谷へ必死で疾走する」
 言えましたか?言えませんか?
 言えないのなら腹を立てて言えるようにがむしゃらに何度もチャレンジしてください。
 たぶんみっともなくも魅力的なスピードが、そこにも。)

March 17, 2007

あの傘が、スキ

傘を持っていた。
もう10年以上昔のことだ。



倉庫行き直前のものたちが、埃に塗れてひっそりと暮らす、玄関前にあるクローゼット。 その奥底から見つけられ、親に捨てられそうになっていたその傘に、あたしはごく平凡な土曜日、思いがけず運命的な一目惚れをした。それは赤い小ぶりの傘で、 内側にはチェックの裏地がついていた。ワンタッチで開くタイプで けれど少し曲がった柄を擦りあがっていく金具は いつもぎこちなくゆっくりで 、格好良さも高級感も微塵もなかった。 なんてことない傘。 取り柄という取り柄もない、なんてことない傘だった。なのにドキドキした。ばかみたいに。どこがいいのかもわからない、赤い、チェックの、ワンタッチ開閉の、傘に。それはあたしに属したがっていた。あたしはそれに属されたがっていた。それだけのこと。けれど強烈に引っ張っていくチカラ、みたいなもの。


そうして、ただでさえ雨が好きだったあたしはそれからことさら雨が降るのを心待ちにして、降れば必ず、その傘を差した。濃い赤とチェックが雨の中滲むのを、あたしはずっと飽きずに見ていた。内側から、外側から、どこから見ても見惚れた。

それは、ひとつの恋だったのだ。

:::::::::::::::::::

事件が起こったのはある蒸し暑いむんとした夏の朝だった。

その日降水確率に胸を弾ませ、赤い傘を持ったあたしはいつものようにたまプラーザ駅から三軒茶屋駅に向けて急行電車に乗った。日常的な地獄。朝の満員電車は不快だったが、そんな不快にも人は慣れるようにできている。どこで力を入れて、どこで抜いて、どこまで人に寛容であり、どこから突き落とすか、という微妙な加減もいつの間にか身に染みついていくのである。やがて電車は溝の口に到着し、あたしは降りる人たちの波に呑まれて一度ホームに降り立った。降りる人たちと入れ替わりに、必死の形相で汗臭いオトナたちが乗り込んでいく。彼らの勢いに負け、降りるのは一番最初だったのに、あたしは一番最後に乗り込むことになった。最後と思って乗り込んでも、発車を待っている間にどんどんと、ドアが閉まる直前まで走りこんでくる人々。オトナになってもこんなことしなきゃならないなんてなんかかわいそうだ。向こうからしてみたら、若い頃からこんな目に遭うなんて、と、こっちの方がよっぽど同情を買っているのかもしれないけれど。


押し寿司の具のようになっても尚、あたしは大事な傘を失くさないよう、しっかりと握っていた。けれど傘の柄は握っていても、二人の巨大なオトナたちに挟まれた傘の先っぽは、努力も空しく、ずるずるとドアの方へと流れていった。ちょっと気を抜くと、いろんなものが人に流されてしまう。あたしの右手は痺れてしまって、とてもじゃないけれど傘を体の方に引き寄せることはできないままでいて、赤い傘の下半分ほどは、まもなくあたしの視界から消えた。駅員が来て、人々を詰め込み、ドアを少しづつ閉める。そうして電車は可哀想になるような重量を背中に乗せてそれでもなんとか次の二子玉川園駅までカラダを引き摺りながらだらだらと走っていった。


大井町線の走る二子玉川園駅ではいつも大量に人が降りる。ドアが開くと、人々は暴発したライフルの弾のようにホームへと転がりでた。あたしももちろん否応もなく押し出される。むんとたっぷり水分を含んだ外の空気を心ゆくまで吸った。夏はもうすぐそこまでやってきている。そんなことを知らせるような生温い風が撫でた。都会の空気は汚れているというけれど、それでも吸わないよりはましだ。

そのときだった。

ふぅ、とちょっとはましな外界の空気を吸って、もう一度電車に乗り込もうとしたあたしが、ふと下に目を何気なく遣ると、あたしの右手には、折れ曲がってボロボロになった一本の傘があった。形があり、機能があるものが一瞬でただの物体になってしまうものなのかと驚くほどに、それはジグザグに折れ、赤い布に黒い線のような跡までついて、見事に死んでいた。それは最早傘ではなかった。金属と布のどうしようもない塊。意味を為さない骨壷の中の灰と一緒だった。


あたしは呆然とそこに立ち尽くし、一層太った急行電車はあたしを置き去りにして同じスピードで走り去った。


次の瞬間、気がつくとあたしは反対方向の電車に乗っていた。自分でも驚くほどの怒りで、あたしは震えていた。傘の壊れ方からして、傘は人と人とに挟まって壊れたのではなく、ドアとドアとに挟まれたことは明らかだった。そしてそのドアのそばでは、自力ではもう閉まらないドアを、人を押し込めながら閉めていた駅員がいたことをあたしは覚えていた。わざとなのかわざとじゃないのか。わからないけれど、あの駅員にはこの傘を救えたはずだ。きちんと傘が挟まらないように、ちょっと手を添えてドアをゆっくりと閉じる。それだけのことでよかったのに。憎しみが沸き起こる。溝の口の駅の様子が何度も頭の中でリピートされる。手、帽子、声。駅員の部分が頭の中を漂う。その隙間をうねるように埋めていく怒り。反対方向の電車は、10分もしないうちにあたしをもう一度溝の口の駅に下ろした。あたしの足に、ためらいはなかった。溝の口の駅構内を闊歩して、あたしは真っ直ぐと駅員室へと向かった。がらんとした駅員室の窓ガラスを割れんばかりに何度も叩く。奥の方から出てきた年配の駅員は訝しそうにあたしを見ながらも、丁寧な口調で、どうしましたか、と聞いた。

ちょっと、あのですね、すいませんけど、えーと、要するに、あたし、急行に、今さっきの、乗ってたんです。2番線です。水天宮前方面です。そしたら、この駅の駅員が、こう、ドア係をしていて、あたしの乗ってたところの、で、あたし、この傘を持っていて、でもこの傘が、人に挟まれて、ドアの方にいっちゃって、でもどうしようもできなくて、そしたら、駅員さんが、ドア閉めるときに、この傘、ドアに挟んで、でもあたしの位置からは、見えないじゃないですか、で、二子玉川で、下りた時に気づいて、傘、こんなんなちゃってて、ひどいじゃないですか?知ってて、見えてて、挟むなんて。ちょっと、こう、ちょっと、角度とか変えて、ちゃんと入れてくれることだってできたのに、なのに、こんなん、なっちゃってて、あたし、おかしいと思うんです、そういうの、絶対、なんていうか、とにかく、おかしいと思うんです、だから、今、二子玉川から戻ってきて、言いにきたんです。

ああ、そうですか、と駅員は言った。
それは申し訳なかったです、弁償しましょう、その傘、おいくらだったんですか。

駅員はそういって冷ややかにその情けない傘を舐めるように見た。




あたしは、気づくとその場で号泣していた。


さすがに慌てた駅員は、1万円でいいか、とか、駅員の顔覚えてるのでしたら、直接謝らせますが、とか、いろいろ遠くのほうで言っていた。

でも、あたしは、気づいたのだった。

あたしは
金も謝罪も反省も、そんなものは何一ついらなかった。

あたしはただ、
恋人の喪失を、1人で抱え込むことができなかったのだ。


誰かに
あたしと傘と恋と喪失を
ちゃんと知って
そして一緒に泣いてもらいたかったのだ。




ようやく泣き止んだあたしは、今更少しオトナぶって言った。

いえ、いいんです、ただ、今後気をつけて頂ければ。取り乱してしまってすみません。大事な傘だったもので。お金はいりません。この傘が返ってくるわけでもないので。お騒がせしました。失礼します。


呆れて見送る駅員の視線を背中に感じながら、あたしは学校へと向かった。


学校に行ったら、笑い話にして話そう


そう思ってあたしは、その通りにした。






それから月日は恐ろしいほど経ち、あたしはいくつもの傘を持った。
多くは安いビニール傘で、買っては失くし、また買った。


なんであんなにあの傘が好きだったのかはよくわからない。
けれどあの傘が好きだった、あの感情が、本物であったことはできれば信じたいと思っている。


今ではあれでよかったのかもしれない思う。
ずっと一緒にいて、マンネリになって、なんとなく飽きて嫌になってしまったよりは。
そんなことない、と昔のあたしは怒るだろうか。
それとも昔のあたしは、それすらわかってて泣いたのだろうか。


それに逆もあるのかもしれない。




あのとき、傘が、あたしを見捨てたのかもしれない。




もう一生会えないけれど
あたしにとって、今でも傘は、あの傘だけだ。


そしてそれは、きっとずっと変わらないのだろう。




この好きは、決して、過去形にはならないのだ。

February 17, 2007

泳がないのが、スキ

沈むのや浮かぶのはスキだけど。
泳ぐのはなにか納得がいきません。
それはあたしの水泳技術ではクロール50mが限界だということとは関係ありません。
一切関係ありません。




とにかく
要するに
何が言いたいのかというと
ヒトは泳ぐべきものではないような気がするのです。


健康のため。遊びのため。競技としてタイムを争うため。
いいじゃない。いいんじゃない?
別にそれに対してとやかく言いたいわけではないのだけれど。
それはそれとして。
楽しんでいるヒトがいるのはそれとして。

純粋にその行為だけを抽出して
「うーん」と首をめいっぱい傾げたなら
なんとなく


「ヒト」
(イメージして下さい。手とか脚とか頭とかが割と頼りなく縦に長い感じで配置されています)

「泳ぐ」
(イメージして下さい。4種類の泳ぎ方に犬掻きなど独創的なものも加えましょう)


のは、無理がある気がするのです。

海や川を支配する魚たちは鮮やかな身のこなしで水圧を分散し
その波と波の狭間にあたかも道が用意されていたかのように流れるように泳ぎます。
哺乳類のイルカや鯨だって、あのぬめりのある肌は水を味方につけたようでずっとお似合いです。


あたしたちはただ手や足をばたつかせ
肺呼吸も止められず
かといって美しく飛び上がることもできずに必死に水面上に口を突き上げ
自然界に痛めつけられた皮膚を引き摺る




それはなんだか
やっぱり虚しいほど不恰好な気がしてしまうのです。




ヒトが水と戯れる正しい方法。
それはやはり
浮かぶか沈むかしかないような気がします。


水と空気を半々に染みこませながらひたすら漂流するか
強大なエネルギーに巻き込まれゆっくりと瞳を閉じるか


たぶんどちらも泳ぐのよりはずっと自然で
ときには可笑しいほど
ときには哀しいほど
ひどく美しい。




流れに任せることの正しさ。
正しいことは美しいのです。




(とはいえ醜いもののほうが魅力的だったりすることもあって。そのお話は、またいつか。)

June 24, 2006

ウィスキーが、スキ

あたしの部屋には長いこと、常にウィスキーが一本、切れることなく置かれていた。


みんなと外で呑んでいるとき、あたしが呑むものは大体決まっている。ビールはお腹がたぷたぷするから嫌いだし、焼酎はなんだかトキメキが足りない。シャンパンは好きだけど高いし、安物のワインは悪酔いする。日本酒は帰る気が無いときにしか呑めなくて、そんなのあたしは滅多にない(意外かもしれないが、明日の予定は結構気にする方なのだ。日常はたまに大きく乱すからよいのであって、しょっちゅう乱してちゃ勿体無い)。そんなわけで結局、あたしはスプモーニやカシスソーダなんかを口にする。着てる服と、よく似合うのだ。綺麗な色のフルーツ系カクテルは。


だからあたしがウィスキーを呑むのはとても特別なときだった。
ウィスキーを呑むときはいつも、そのウィスキーよりも苦い何かを忘れたいときだった。


何かしんどい事情を抱えたとき
その事情の大きさに応じて、あたしのアルコール摂取傾向は変化する。
最も軽度なときは運悪引っかかった友達を巻き添えに、カクテルを止め処なく呑む。
その次はもっと運の悪い友達と、やっぱりどこかのお店でウィスキーを水割りで。
更に酷い場合は一人で部屋でウィスキーをロックで。
最悪の場合は、もう瓶に口をつけてストレートのまま内臓に流し込む。


あたしは呑むと顔が赤くならず、どちらかというとどんどん青白くなっていくのだけれど、これはどうやら肝臓がうまく機能していないらしく、お酒には弱いようで。ストレートで流し込んだウィスキーはあっという間にあたしの身体の自由を剥奪する。泣きながら呑んでいると、水分がどんどん出て行くから、きっとアルコールが体を駆け巡るその濃さも結果的に粘るほどに濃くなっているのではないかと、その粘り具合なんかをいつもぼんやりと想像する。カラダがどんどん熱っぽくなるころには、次第にそんな想像もままならいほどの吐き気がこみあげてくるのだけれど、それでもそこで止めてはいけない。気持ち悪いのに無理してさらに呑むと、当たり前だけどさらに気持ち悪くなって、そう、当たり前なのに、そんなことが小気味よかったりする。ほら、予想通りだ、と。あたしの予想通りに進む物事も、この世界にはまだあったんだなあ、と。


そのうち全身が痙攣して、そうするとあたしはようやく全てを吐ききることと、早く眠りたいということ、それ意外は何も考えないで済むようになる。トイレにぺたりと座り込んでいると、なんだか自分が無力で奇妙な形をした物体のような気がしてきて、そのうちそれがとても愉快になる。嗚呼、きっと今ならあたしはこのままトイレに顔を突っ込まれてそのまま排水溝へと勢いよく流されていっても、ケラケラと笑い続けたりできるんだろうな、とか。しょうもないことばかり考える。


そうこうしながら、僅かばかり残された理性を掻き集めて、なんとかベッドに倒れこむと、大抵は頭痛と耳鳴りと吐き気に襲われて、とても眠れるような状況じゃない。あたしは、ひたすら知らないカミサマに祈る。嗚呼、もう望みなんて何一つ叶わなくていいから、とにかく今すぐ痛みという痛みを全部取り除いてとりあえず深く、眠らせてください。今眠らせてくれるなら、他のことはなんだって諦めて見せるから、と。




こんな風にして
数々のデカダンとメランコリーの季節をあたしはやり過ごしてきたのだけれど。
近頃、あたしは思いがけない壁にぶつかった。


あたしがウィスキー、特に部屋に常備されているジェイムソンを呑むときというのは、大抵吐くために呑んでいるようなときで。それを、あろうことか、あたしの優秀な体は遂に学習してしまったのだ。最初のうちは、睡眠不足だからだとか、お腹が空きすぎて胃に穴が空いたのだとか、適当な理由をつけて騙し騙し折り合いをつけていたのだけれど、誤魔化せないところまで、それはすぐに進行した。最早あたしがジェイムソンに口をつけるや否や、体は吐く用意を始めるようになったのだ。オートマッチクに正確に。その情報はあたしの全内臓を操縦するようになった。


さすがのあたしも、泣き止むまでの数時間、何回かも瓶を逆さまにして天を仰いで苦吟したいわけで。一杯目で吐いては、こちらのシナリオが崩れてしまう。酔えない。情緒も何もない。ただの気持ち悪い人だ。




そういうわけで、仕方なく。
部屋の風景の一部となるほど長いこと深い緑色の瓶が君臨していたCD棚の上では
今はアマレットの大瓶が澄ました顔で微笑んでいる。




アマレットは甘い。

何杯も呑めば、もちろんお酒に弱いあたしは酔うのだけれど、その酔い方はウィスキーなんかとは到底比較にならないほど、ずっとずっと甘い。甘やかなアリジゴクの巣の中に引きずり込まれて、螺旋を描きながらだるく落ちていくような。そして麻酔が効いている中で、ゆっくりと四肢が美しい妖怪に喰いちぎられていくような。たとえ吐くまで呑んでも、吐いたあとの口障りはずっとなめらかで甘ったるく、ジェイムソンのときのあのざらざらしてツーンとした感じとは違う。それに何より、アマレットは、いい気分のときにだってちょっと呑みたくなる。ただただ甘い気分に浸りたいときや、ほろ酔いで眠りたい夜にだって。


それはつまり、全然特別じゃないということで。
そしてとても美味しいお酒だということだ。


家にあるグラスで一番キレイな薄紫色のグラスで、カラカラと氷の音を立てて味わいながらアマレットを呑むあたしは、とてもオトナのように思える。かわいらしい、上品な、オトナのオンナ。あまりにそれが素敵な気がして、そしてそれがあまりにも珍しく思えて、最初の頃は呑んでいる自分を鏡で見て、「うん、オトナだ。」と確認してみたりすらした。忘れたいことや苦しいことがあった日でも、アマレットを呑めばあたしは甘くとろけるような場所に連れて行かれてしまう。排水溝みたいなぐちゃぐちゃでどろどろでメッシーなところで自暴自棄になってしまうこともない。


どうだ、これは実際オトナではないか。
嗜好品を嗜み、夜を甘くして、にっこりと微笑む。
苦しいことは静かに受け入れ、去るものは追わず、失ったものを諦め、夜を慈しむ。
やればできるじゃないか。
ほら鏡を見て。大丈夫、あなたの横顔は今、とても「オトナのオンナ」だ!
いいんじゃない?この線もいけるんじゃない?
嗚呼、なんて素晴らしい発見!そして進歩!






けれど、アマノジャクなあたしは。
やっぱりね。
港の荒くれ者のように、ウィスキーを瓶呑みして、ひどくみっともなくなってしまう自分を失いたくない、と思うのです。


あたしにとっての人生は、そっち側にあるような。




今は多分時期じゃない。
だけど予感はもうあるのです。


ウィスキーじゃなきゃダメなときが、きっとまた訪れる。




世界が転覆していく中、全てを放り投げ、全力でみっともなくならなくてはならないときが。




あたしは今、そのときが楽しみで仕方ない。
アマレットは美味しいし、オトナなオンナなあたしもちょっと捨てがたいから、アマレットの場所は取っておいてあげよう。

だから、その奥に。そうだな、灰皿の隣かな。空気清浄機の場所をちょっとずらそう。


同じ棚の上に、また遠くないいつか。

お気に入りのウィスキーを、きっとまた、並べるのです。

May 28, 2006

エンドクレジットが、スキ


いろんな人がいると思うけれど
映画を見るとき、あたしはエンドクレジットは最後まで見る。


深く腰掛けた椅子の上で余韻に浸りながら、こっち側にゆっくり戻ってくるための時間として必要なのなのかもしれない。
あとはあたしが少なからず映画産業に関わってきた人間だから、身内的気分で作り手側の情報が気になるからなのかもしれない。


けれどおそらくあたしは、もうちょっと純粋にエンドクレジットにやられている。


その数。
夥しい数の人の名前が羅列された長い長いリストに、あたしはただただ圧倒されるのだ。

大きいフォントで最初にゆっくりと登場する名前たちはいい。
あの役をやった人がこの人なのね。
ほー。あ、この人うまかったなあ。あ、こいつイマイチだった。
そうだな、10人ぐらいまではわかる。
でもそのあとだ、エンドクレジットの本当の凄さは。

字はどんどん小さくなって、名前は加速度的にずらずら流れてくる。
どこにそんだけの人が出ていたのか全く想像がつかないほど、たくさんの名前がこれでもかっていうぐらい羅列される。
この2時間そこそこの作品をつくるのにこれだけの人が関わっているということ。
そのことにあたしはただただ圧倒されるのだ。
現場を覗き見てきた人間として、そんなことは重々承知されているはずなのに、
実際クレジットが流れていくのを見ると、いつでもあたしは泣きたくなってしまう。
それは単純な嬉しさとか、感動とか、そういうことではない。
圧倒なんだ、多分。もっと説明つかない感じ。
たとえその人が胸の中で「これクソ映画だなあ」と散々毒づいていたとしても。
たとえ関わったことさえすでに忘れてしまっていたとしても。
それでもその人たちは、実際、確実に、その映画の一部で。
で、ひたすらそういう人、人、人、の、名前。名前。名前。
ものがひたすら羅列されるという状態の静謐な美しさも手伝って、あたしはもう動けない。
ひたすらその名前たちを目で追い続ける。闇が明け、光が戻り、ドアが開くまで、ずっと。


ところであたしは自分の人生を映画として認識しがちだ。
自覚的なわけでは無いのだけれど、ふと気づくとそうしてしまっている。
(舞台出身なんだけど。不思議。)

たとえば一人で道を歩いているとき、あたしは大概自分にナレーションをつけてしまう。
道を歩いている自分の映像につけるのにぴったりのナレーションが、頭の中で鳴り響く。
(このおかげであたしはナレーションにだけはちょっとだけ自信がある。ナレーションの方が本編より得意なんじゃないの?)
それにカメラ位置もコマ割もきちんと浮かぶ。
あ、ここ。今。今アップね!左側からおさえてね!
そんなことをつい考えてしまっている。


人生が映画的と言っても
それは別にあたしの人生が劇的でもんのすんごい壮大なストーリーによって支えられているというわけではない。大袈裟なハリウッド映画とわかりやすい邦画と涙涙の韓国映画だけじゃないのだ、映画といっても。泣いたり喚いたり日々青春で、あげくすぐ人が死んだりとか、成田で一悶着あったりとかね。そういうわけじゃない。多分。

多分。

不条理極まり無い映画だったり、ナンセンスコメディだったり、前衛的な実験映画だったり、静かな眠い系だったり、バイオレンスな格闘系だったり、エログロ系だったり、やっぱりストーリー性のあるラブストーリーなのかもしれないけれど、

あたしはまだこの映画、道半ばなので判断がつかない。
ひょっとしたら今までは序章でこっからどんどんSFかもよ?
(でもホラーだったらやだな。サスペンスも。それだけはなんとか避けたい。)

どんな展開のどんな映画なのか。
それは想像するとちょっと楽しい。

でもそれよりも。
もしこれが映画ならば、あたしが一番楽しみなのは。

やっぱりエンドクレジットだと思うのです。

大きい役や小さい役。いろいろあるけれど。
たとえばあたしが道端で見て憧れたレースのたっぷりついた藤色のワンピースを身に着けたおばあさんだって
たとえばあたしを最悪な気分にさせたやたらもたれかかってくる排水溝の匂いを放つおじさんだって
たとえばあたしに気づかないまま素通りした運命の人だって


この画面に収められた人、みんな。
みんな丁寧に。

あたしはきちんとクレジットしてあげたいのだ。


それでできればそのエンドクレジットをじっと闇の中最後まで見たい。
思い出せる人思い出せない人
知ってる人知らない人
セリフのある人役名の無い人
エキストラもスタッフもみんな


で、きちんとありがとう、って言いたい。
思い出したくない人も思い出せない人も誰だか全くわからない人も。
一人一人の名前をきちんと噛み締めて。


照明部も音響部も制作部も他諸々のスタッフ・スポンサーも誰一人(っていうか人ですら無い場合もあるけど)自覚的に手伝った覚えは無いと思うけれど


とにかくもうなんだっていいよみんなだよ、みんな。


みんな。それで、打ち上げに来ればいいのに。

お疲れ様でしたー!

って言って乾杯したい。
あたしが奢るから、みんな好きなだけ呑めばいい。
誰かが潰れて、誰かが介抱して、恋でも勝手に生まれればいい。
誰かが一芸でも披露すればいい。調子に乗って脱いで怒られたりすればいい。
エンターテイメントとは何かについて語って、喧嘩でもすればいい。
カウリスマキでもジャームッシュでもゴダールでもカラックスでもエイゼンシュテインでもなんでも引き合いに出せばいい。

そうやって朝。
光。
光。
光。

みんなで眠いね、って言って帰ればいい。


そうそう打ち上げの前に。


エンドクレジットの最後、おまけの映像でも入れておこう。
何にしよう。
そこがセンス問われるとこだよね、きっと。


March 31, 2006

春風が、スキ

向かい風と追い風なら、あたしは向かい風の方がスキだ。


向かい風の中歩くのはとても気持ちがいい。
手の込んだオールバックは恥ずかしいしみっともないけれど
自然派オールバックはとても便利。
髪が顔に纏わりつかないから視界がクリアだし
肌を擽って(これ、「くすぐって」って読むんだね)痒くなることもない。
とにかくスッキリして気持ちがいいのだ。


向い風の中、大股で風に体当たりしながらリズミカルに歩を進めると
自分が今、自らの意思と能力で着実に前進していることが風の抵抗によって実感できる。
吹き付けてくる風が強くて、少し呼吸が苦しくなるのもなんだかドラマチック。
中世のお話の騎士のつもりであたしは風に一人立ち向かう。
このスピードを崩さなければ、きっと世界を手懐けられる。
そう夢想し、意地になり、駆け抜ける。


向かい風が吹くと、あたしは途端に強くなれるのだ。


あたしは一人で
そして奇跡的に自由で
世界と闘って、そして勝つ。


向かい風はあたしを試し、あたしはそのゲームに乗る。
その先に待つ、あの無敵な感じ。
一人で強くあることは、とても気持ちのいいことだ。




一方追い風は、ひどく厄介。
そこそこの追い風はすいすい進めて気持ちいいのだけれど
強い追い風には不穏さを感じるのだ。
そのまま流されると、渦のようなものの中にに引き摺り込まれるような。
気を抜くと叩き落とされるような。
隙を狙われて、足元を掬われて
そのままぽっかりと空いた虚空の穴のようなものに、すとん、と容易に落とされるような。


胸騒ぎ。


ざわざわざわ
と心の中が音を立てる感じ。
実際追い風は不穏な音を現実に立てながらゆっくりとあたしたちを襲う。
(そう、向かい風はもっとビヨーンとかゴウキュルーとか楽しげな音を出す)
きっとスキーでジャンプしてる人たちはきっとわかってくれるはず。
追い風が、のしかかる、あの感じ。


追い風は変な感じ。
でも?だからこそ?
その胸騒ぎや、落ちていく感じ、ざわざわ、や、すとん、といったあの感じ。


あの感じは、とてもセクシーな感覚だったりもするのだ。


それはたとえばエレベーターが下降する瞬間や
荒波の日に縦揺れを起こす船がやはり小さく落ちる瞬間にも似ているけれど
いずれにしろ、あたしは「あの感じ」に弱く、カラダの奥の方が勝手に蠢く。
カラダの中から、すとん、と宇宙が抜け落ち空洞ができたのか
それともその空洞が宇宙によって埋められたのか
どっちにも感じられて、どっちかわからない感じ。


それは確かにとても官能的で、あたしはぞくぞくして、
そのぞくぞくが、気持ちいいことなのか悪い予感なのかどうか判断がつかなくなって
その感じにまたくらくらする。
実際は、追い風に吹かれているけなのだけれど。


追い風のセクシーさ。あたしはつい、目を閉じる。
落ちるという感覚は、本質的に快感に近いのかもしれない。






なーんていろいろ書いてみたけれど。




春風の前では全てが無効。
もう、向かい風も追い風も無い。


春風はとかく全方向から吹いてあたしを混乱させるのです。




髪はぐちゃぐちゃだし、目はしょぼしょぼだ。
肌も乾燥するし、顔を歪めるからどうしたって不細工になる。


そうしてあたしは混乱する。


何に立ち向かい、何に溺れればいいのか、もうわからない。
あたし何キャラだっけ?
強いんだっけ?セクシーなんだっけ?
自由なんだっけ?不自由なんだっけ?
1人?2人?それとも3人?
もう拠り所がどこだったのか、皆目検討もつかないのだ。


それはひどくはがゆく、苦しいこと。
どのストーリーもあたしをその気にさせてはくれない。
どっちもありで、どっちもなしで。
とりあえずお家に帰りたいのに、方向がもうわからない。




けれど。
春風の混乱は一流品なので。




その混乱はある風速を超えると
もう突拍子が無さ過ぎて、みんな笑うしかなくなってしまう。


女子高生のスカートは飽きるほど捲れ、
おじちゃんのカツラは飛ばされ、
自転車は蛇行し、
ゴミはカミサマからのプレゼントのように舞う。




全てはコントで、あたしたちは笑う。
世界は温く、人生はギャグで、あたしたちはこの混乱に身を委ね、笑う。




そして風は吹く。


笑いつかれたあたしたちの舞台に花びらが馬鹿みたいに舞うから
キレイとか通り越して、ほら、もう何も見えない。




春は、そんな季節。


全ては、春風のせいで。

March 19, 2006

夜の冷蔵庫が、スキ

冷蔵庫は孤独だ。




割と騒がしく、たくさんのものたちがひしめきあう台所の中
やたら大きい直方体は、ただじっとひんやりと冷えている。
大抵は隅に。でなくとも大概は壁際に押しやられている。


その四角さとその冷たさ。そしてその清潔さ。
そこにある孤独と、その孤独さと同質の静謐な光。


冷蔵庫がますますその孤独さとその魅力を発揮するのは夜だ。
できれば深夜がいい。
闇はなるべく深い方がよくて、季節はできれば真夏かそれかいっそのこと真冬がいい。
(それか変な夜。季節とは関係なく何かに火照る、それか凍える夜。)


しん、と、した夜の中、そう、多分そういう場合、台所の電気は消えていて、とても暗い。
音は全くしなかったり、案外窓の外からは喧騒が聞こえていたりするかもしれない。
けれど部屋の中から発せられる音は無い。
その中で冷蔵庫は低く唸る。ジジジジジとかブーンとかヴィーとかズーとか。
床は微かに振動する。それは気まぐれに止んだりもして、そのうちまた始まる。
その機械音は余計に孤独を際立たせる。
不思議なもので、音を立てている冷蔵庫がお喋りではなく寡黙なのだということは、予め定められていたことのように何等疑いの余地無く理解される。




ドアに手をかける。
ヴォワッサみたいな音が、マグネットを引き剥がしたときに聞こえる。




その四角の扉を開けると、そこは光の海。






煌々と放たれた光は
一瞬だけ、そうだな、多分ちょうどその眩しさに目が慣れるまでの間ぐらいの時間。
ちょっとだけ、希望みたいなのに見えなくもない。


そこには日常に即した食料品が無造作に並んでいて
何かを取り出そうと思うけれど、特に食べたいものもない。
けれど、閉めてしまうのがもったいなくてしばらくはそのままにしてみる。
食料品は美しい。食べかけでも賞味期限を少し過ぎていても。
そこには日常がある。
けれど同時に、ただ陳列されて鑑賞の対象となった日常は、非日常にもなる。




白い光は差し続ける。冷蔵庫は全てを冷やし続ける。暗闇の中で、ただひとつ。


そうしてあたしは、冷蔵庫は孤独だと思う。




気が済んで、ドアを閉める。
そのまま冷蔵庫にぴたりとカラダをつけてずるずる座り込むと
意外とモーターはあたたかいことを知る。
そのあたたかさを感じて、余計にあたしは泣きたくなる。
なにも考えないことはできないものか、と考える。


けれどたぶん、あたしは実際には泣かない。そしていっぺんにたくさんを考える。




そうしてあたしは、冷蔵庫は孤独だと思う。




大きな直方体と、光と、冷たさと、あたたかさと、唸りと、沈黙と、夜。
孤独な夜の冷蔵庫。
それはそれは美しく。
この夜を当たり前のように支配する。
その孤独は全てを呑みこみ、全てを受け入れる。






冷蔵庫は孤独で、この夜と、そして全てのちっぽけなひとたちを赦す。

March 6, 2006

ありえないことを待つのが、スキ


オペレーターが出るまで変な保留音を聞かされて3分待つのは嫌い。
ATMの列で10分待つのは嫌い。
歯医者で30分待つのは嫌い。
バスを1時間待つのは嫌い。
鳴る筈の電話の前で2時間待つのは嫌い。
帰ってくる筈の人の家の前で夜中6時間待つのは嫌い。


なのだけれど、どうしてか。

ありえないことを待つのは、結構スキなようです。

まさかなあ、ありえないよねーと思いつつ。
けれど無根拠な確信を持って、なにかをただただ気長に待ち続けるということ。
それはある意味では残酷でまさに途方が無い。
けれど、ひとつ言えることがあって。


こうしておけば。

少なくともあたしは
待っている間は死ねないのだ。


そうやって生きてきた。あたしはこの何年間か。
ひたすら待ちながら、ちゃんと見つけてもらえるようにいろいろ小細工もした。
「いつなの?」とは聞けないから、自分でその「いつ!」を決めた。
こうやって決めた「いつ!」は強い。
元々根拠の無い、あたしの冴えない勘に頼って設定された待ち合わせ日は
疑うべき根拠も無い分、自立していて、そして完成されている。絶対なのだ、つまり。

26歳になったら。
26歳になったら。
あたしはずっとそう思ってきた。
26歳は奇跡が起きる年。なんとなくそんな気がして、そのままそればかり信じてきた。
こんなにも普段ぐじゅぐじゅと理屈をこねくりまわしているあたしが
何故そんなことに確信を持てるのかは知らない。
ひょっとしたら、生きるための手段なのかもね。

それにね。
実際、強く願えば叶うのだ。
これ、ほんと。騙されたと思ってやってみてよ。

もちろんそれでもそりゃさ。
待ってたところで、
どっかの連ドラの最終回みたいに全てにハッピーハッピーな決着がつく訳じゃない。
だっておバカなあたしたちは。
慢性満足デキナイ病という難病を抱えていて
叶えられた奇跡、の、その先を期待する。
あわよくば、あわよくば、そればっか。


そうして
たくさんの後悔と混乱と虚脱感を抱えて
幾ばくかの浅ましさとふしだらさと計算高さに気づかないふりをして
夥しい量のアルコールと睡眠薬代わりにルルを体内に注ぎ込んで

「嗚呼、世界は、またひとつ、こうして崩壊した。」

と呟いたり、あるいは叫んだりして嘆く。

けど良く考えたら、もうほんとは十分祝福していい筈なんじゃない?
ありえないことが起きたこと、と、それまであたしが生き延びたこと、と。
すごくない?すごいよね。ダブルだよ。2倍喜んでいいんだよ?

そんなわけなので。
やっぱりあたしはありえないことを待ちながら生きていくのがスキなようです。
それは言い換えれば、漠然とした根拠の無い希望というものなのかもしれない。
具体的な希望はさ、ほら、
抱いたその7秒後には、きっとひどく具体的に、そしてあっけなく潰されてしまうから。


だからあたしは懲りずにまた待っている。
ぼんやりとした希望を抱きながら、またありえないことが起きる日を待っている。
遠いいつの日か、そうだな、今度はこんな春先の夜がいい。
その日まで、あたしはまたてくてくなんとか生きていく。


見失われることの無いように、いろんなところに痕跡を残しながら
崩壊させられるために、次の世界を少しずつ組み立てながら

ただただ気長に待つのです。
たまには待っていることすら忘れて、まどろみながら。


February 10, 2006

カラダが、スキ


自分のカラダがスキかと言われれば
ある観点から見たそれはもう本当にどうしようもないくらい嫌いです。
肉のつき方も皮膚の薄さも骨の歪みも酒を呑むと右目がむくむのも足が変な形で合う靴が少ないのも
基本的にはもうどこもかしこもほんとうに気に入らない。
見た目だけじゃなく機能的にだって。大病は無いが地味にまずい。
まずしょっちゅう風邪をひく。
一年のうち多分300日は風邪をひいていて、それはもうそこらでは有名な話。
それに体力だってない。筋肉もあんまりつかないし、ぷよぷよしてる。末端冷え性。眩暈、耳鳴り、吐き気多々あり。4年前ぐらいから偏頭痛もときどき患うようになった。とにかく三半規管が弱く、花粉症もひどい。気管支と肺が弱いのは、1,000円で占ってもらった手相の占い師にだって読まれた。

そんなわけで。誇れるところなんてほとんど無いとなんの謙遜でもなく思うのですが。

それでもやっぱりこのカラダはスキです。
表面的な美しさはさておき、不健康さもさておき。
もっと本質的なところを、あたしは最上級の方法で愛でてあげたいと思うのです。


深い深いところまで届くように。あたしのカラダだけに許されるスペシャルな方法で。


あたしのカラダは、あたし本体よりもいつだってずっと賢く生きている。

彼女はいつもあたしよりよっぽど世界ときちんと向き合っていて
正しいことと正しくないことを丁寧に見極め、そして躊躇無く大声で喚く。
躊躇無く。それはそれは爽快なほどに。


現実にはそれは
酷い恋愛に拘泥しているときには膀胱炎を発症し
酷い状況に甘んじているときには胃の中の侵入物をひたすら逆流させ
とにかくもう休むべきときには20時間も覚めない眠りに引き摺りこむ

といった割とファンキーでワイルドな展開に結実する。
それが、彼女の叫び方。

こうなったら。
頭がなんと言おうと、あたしは、あたしのカラダの言うことをきちんと聞こうと思います。
そっち側が正しい筈だと。
カラダは全部わかっているのだと。
いつだってちゃんと信号を送ってくれる彼女をあたしは信じる。
そしてその信号を
あたしはいつまでだってちゃんと見逃さないようにしていたいと強く思うのです。


「考えすぎだよ」と人に言われるのを常としているあたしだけれど
そういうわけで、結局困ったときはもうただ全てをカラダに委ねることにしています。
体調が悪ければ、食べたいと感じるものだけを食べ
気持ち悪ければ、吐き
泣きたければ、泣き、笑いたければ、笑う。
発疹がデート前に突然出たなら、そのヒトとはもう一緒にいるのはやめようと思うし
耳鳴りが幻聴に変われば、全てを放棄する。


「石橋を渡る前にそれを叩く道具から叩く回数までさんざんうだうだと考えたあげく、
結局突然その思考全てを覆し、無茶なステップで渡りきる」
という不可解な行動を取るように見えるのは
だからきっと、このせいです。
最後にはカラダの言いなりになっちゃうからです。


これがねえ、結構楽しいんだよ。
たぶん、とてもシンプルなことだから。

そうそう。

それにカラダはいいことだって教えてくれる。
黄色や赤の信号だけじゃなくて、とびきり綺麗な青い信号もキラキラさせる。

だからたとえば、このドキドキしてるのはきっと。


January 19, 2006

踊るように書き、歌うように喋るのが、スキ


あたしは文章書きとしては決して器用な方では無い。

そんなことはいつも「書く」前からわかっているし、「書く」途中でもわかっているし、「書く」のが終わったあともわかっている。というか、そもそも文章以外のなんでもなんだって、大事に思っていることに関しては器用な方ではまったく無い。カッターでまっすぐに線を引けないように、真っ当な恋愛を丁寧にこなすことができないように、地図でいう「上」が道路上では「直進」である、ということがわからないように。器用なことは、そうだな、ほんとうにどうでもいいと思ってることだけ。たとえば仕事。ビジネスメールの処理と、専務のスケジュール管理と、ガイジンさんのアテンド。そういうことは、とても器用にできる。きっとどうでもいいと思ってるからね。でも大事に思うことは何一つ思うようにできないし、大事に思うものはあわあわしてるうちに全部失くす。だから一度、いろんなことを「どうでもいい」と仮定して、どうでもいいことやものとして処理することにした。そうすれば器用にできると思ったから。でもあたしは忘れていた。あたしは、『「どうでもいい」と自分自身に思い込ませる器用さ』を持ち合わせていなかったんだった。ありゃりゃりゃりゃ。なんて単純でなんて哀しいこと!

話は戻るが、そういうわけであたしの文章はいつも足りない。見えてる映像の、聞こえてる音楽の、そういうカタチを取らない七色のゼリー状の全ての原型みたいなものの、ほんの一部ですら、あたしは全然正確に説明できない。(それにはひょっとしたら「コトバ」の持つ本来的なセイシツみたいなのが少しは関わっているのかもしれないけれど、なんとなく違う気がしてる。それは「コトバ」の落ち度ではなく、大部分はこの脳みその落ち度だ。)

ちなみに喋ってるときの状況はまた少し違う。

あたしは喋り手としては器用とか不器用とかという範疇を超えている。(ところであたしは「葉」という漢字が好きなので、「喋」という漢字も好きだ)だってあたしは少しでも調子が悪いとぴたりと喋らなくなってしまうから。あたしは黙ることと、その場からふいっ、といなくなってしまうことが得意だ。(あ、それは器用にできるかもしれない)それか逆にどうでもいいことをひたすら喋り倒すということもある。嘘はぺらぺらぺらとこの口を簡単に滑らせる。うそもほんとうも下ネタもダジャレも大きく口を開けて笑って腹を抱えて喋ってれば、みんな安心して納得して仲間に入れてくれる。仲間に入れてもらうのは実は嫌いなわけじゃない。淋しがりやだからね。


そんなあたしなので、実際、いい文章書きやいい喋り手になるのは相当難しいと思っている。だからあたしはそんなもの無謀にも目指すことはをすっぱりさっぱりきっぱりやめたいといつも思っていて、たとえばあたしが、世界や、大事なキミや、遠いアナタに語りかける最も有効な手段について、かつてはいろいろと思考し試行したものだった。

けれどもびっくりすることに、あたしは本物の不器用ちゃんだったのだ。

絵はクロッキーも水彩も油彩もパステルもアクリルも何もかもダメだったし、歌はすぐにピッチを外す。ダンスは振りつけが絶望的に覚えられないし、ノコギリは手を切り落としそうで使えない。立体的にものを見るのが苦手だし、手があまりに小さくて、楽器は何やってもうまくいかないし、機械音痴だし、運動神経は怖ろしく悪いし、体力は養命酒の購入を既に考え始めているほど、無い。


悪い文章書きのあたしは、ここでいきなり結論に飛ぶ。

あたしは、踊るように書き、歌うように喋るのがスキだ。


なにもできないことがよおくわかったあたしは、結局それでも文章を書くことや喋ることを大事にすることになってしまい、それなりの気持ちでそれらを続けてきてしまっている。けれど「名文だ!」「名セリフだ!」なんてことや、「流麗な文章からは細やかな情景が浮かび上がってくるよう!」「嗚呼!サガンの生まれ変わりのYO!」「ワオ!頭のいい喋り方とはこういうことネ!」なんてことは言われなくてもしょうがないなあ、と思っている。だって何しろあたしはコトバの中身を正確に誰かに対して、説明することが器用にできないから。「ひとりよがりの文章は最低です!」、とブンショーキョーシツでもハナシカタキョーシツでもきっと言われるのだろうけど、その場合あたしは最低だ。まじで。けど最低なら最低なりにやってくしかないと思う。そこから最高を目指すのはタイヘンで、あたしはただでさえいろんな意味でタイヘンなことに巻き込まれやすい人生だし、そもそもタイヘンな性格なので、正直もうタイヘンなことはあんまり増やしたくないのだ。今のところ。(それでもいつかタイヘンでもいいからちゃんとしたい!と思って頑張るときが来るかもしれないけど。)


んじゃ、どうしよう。どどどどどーしよー。いかに書き、いかに喋るか。


あたしはうんうん考えて、うーん、わからん、と思った。でもやっぱりコトバはスキだなあ、とも思った。
そのうち。
考えてるうちに、あたしは楽しくなってきた。
それで結局、あたしは自分が一番楽しくなることを追求することにした。
あたしは他人にも自分にも甘いのだ。


あたしが一番楽しいとき。それは、よく、このカラダが知っている。
多幸感というコトバが大袈裟でなくなるとき。
それはいつも、あたしが踊るように書き、歌うように喋っているときだ。
実はこれはこれで、いつも器用にできるわけではない。自分のコンディションがよかったり、海が奇妙な色だったり、スキな人からいい匂いがしたり、そういう特定された状況じゃないとしようと思ってもできない。


でも、できたときのあたしは無敵だ。ほんとうに。
あたしはほんとうに世界を台無しにすることができるし、分裂したり胞子を飛ばしたりしながら、空を飛ぶことも出来る。その間だけ、あたしは欲しかった宇宙を丸ごと手に入れる。


昔、「右手首のダンス」という遊びを思いついて、右手首だけで踊って、その踊った軌跡をその右手に握ったペンでノートにひたすら記していたりもして、それはそれですっごくエキサイティングな遊びだったのだけれど、「踊るように書く」ことはそれとはまたちょっと違う。「歌うように踊る」のも決してアイルランド人のように喋ってる音程がたりらりら~たりらりら~と絶えず波打つというわけではないし、ミュージカルとかオペラは、例えにすら挙げられない。

「踊るように書く」というのは
書いているときのあたしの状態が踊っているときの状態とイコールであって
その結果、文字も文脈も行間もコトバも何もかもが。
ダンスである、ということだ。
「歌うように踊る」というのは
喋っているときのあたしの状態が歌っているときの状態とイコールであって
その結果、文字も文脈も行間もコトバも何もかもが。
うたである、ということだ。

え、え、え、え。じゃあ、何?どんなの?「踊るように書き、歌うように喋る」って結局どういうこと?ていうか、なんで「踊るように書き、歌うように喋る」なの?なんで?なんでなんでー?

ね。ほら。悪い文章書きのあたしは、大事なことは何一つきちんと説明できやしない。

バッラービレ。踊るように。
カンタービレ。歌うように。


ただわかることは。
あたしは踊るように書き、歌うように喋るのがスキで。
それが毎日のようにできていた奇跡の日々を今でも鮮やかに思い出し。
少しでもその魔法を取り戻してあの多幸感を味わえるように。


今日もまた。
いくつものステップを想い、いくつものメロディーを想っているということ。


もうすぐ、もうすぐ。きっと震えるほど楽しいよ、また。

January 10, 2006

ホテルが、スキ


ホテルというものはなんて便利なものなのだろう、と思う。


たとえばなんの用意もしていなかったとしても。
少なくともそこにはあたたかなお湯があって、それなりに大きなベッドがある。
テレビもあって暖房もある。
シーツは白く、バスタオルは清潔そうに畳まれて、
バスローブや浴衣が他の物よりちょっとだけウカレた感じで置かれている。

世界の果てにいると信じて疑わない、駆け落ちした恋人たちにも
お金で買った思い出を、買えないものに見せかけようと必死な家族にも
言い訳だらけのみっともない久しぶりの2人にも
探し物が見つからず座り込む1人にも


全てのヒトに平等に。
ホテルの部屋は、ただそこにきちんと、ある。
きちんと。

それはとてもとても幸福なことです。


もちろん「ホテル」にはちょっと違う感じのところもある。
けれどあたしはそういうのは厳密にはホテルとは呼ばない。
それらはユースホステルだとか宿だとかジャングルだとか
もっと別の名前が与えられる場所のはずで
あたしがホテルと呼ぶのは

最低限の清潔な、そしてきちんと孤独な部屋を用意しているところだけです。


ホテルの部屋に入った瞬間
あたしはいつも
そこがもうあたしやあたしたちのためだけの1つの宇宙のような気がしてしまう。
とてもとても孤独でいとおしい宇宙。
前にも後にもその部屋では入れ替わり立ち替わり人々が過ごしているはずなのに
その感覚は揺るがない。
それはとても奇妙なことです。

でもきっとそれは
ホテルの部屋というところが

日常からは、決定的に遠いところだからだと思います。


自分の部屋のようにも馴染めず、他人の部屋のようにも浮きもせず。
ホテルの部屋はそういう比較とは違うレヴェルで。
静かに小さな宇宙を内包する。
日常から遠いその小さな小さな宇宙では
実に様々なルールが失われる。
それはその宇宙で
日常やら現実やらを背負い込むこの疲弊した世界を
甘く丸め込む魔法が通用するからです。

全てをシンプルに祝福する魔法。
あたしは
その勘違いの宇宙で通用する魔法を愛す。


あっち側。

全てのルールを超えて、純粋に欲望する、あっち側の宇宙の象徴としての魔法。


たとえば好きな人の家の、好きな人の匂いのする、好きな人のベッドで眠ることは
もちろんとても心地よく、泣けるほどに安らかなことです。
なぜならその延長線上にははっきりと日常があるから。
そして日常はいつだって。
素晴らしい頑強さとしぶとい健やかさを携えて
最終的には何にも負けずに流れていくのです。


けれど
一緒に生きていきたい人と一緒に死にたい人とが時として違うように。

たとえば日常というこっち側にあたしがしっくり馴染めないのだとしたら。

あたしは甘やかな魔法に。小さい宇宙に。
あっち側に、しばらくは属していようと思う。
少し遠いホテルで、このやたら寒い季節が終わるまで、しばらく暮らすように。


それにあたしは知っている。
とても簡単なきっかけで、あっち側はこっち側にもなる。
それはホテルの部屋の壁越しに、キスをするのとおなじぐらい簡単なこと。
こっち側とあっち側が楽しげに入れ違うとき。

邪魔なルールは全て溶け、魔法は全ての部屋で起こる。

そうやって。世界は台無しになるのです。とてもとてもいい意味で。


October 31, 2005

季節の恋が、スキ

ようやく。ようやくまたやってきた。

そうして少しずつ少しずつ
私はまた寒い季節の中で生きる方法を思い出すのです。

夏の恋と冬の恋は違う。


夏の恋より冬の恋のほうがずっとずっと切実で。
或いはそれには最早「好き」という表現は適さないのかもしれません。

それはどちらかといえば

「好き」ではなく「必要」という概念に近いような


その場合、好きと必要のどちらが上位かと言うと、それはまた難しい問題なのだけれど。
多分それは上位とか下位ということではなく、ただただ異質なのだと思います。

夏の恋(即ち「好き」)と冬の恋(即ち「必要」)。


夏の恋は依存しない。


茹だる暑さの中であたしたちは毛穴を開くように自らも開く。
あたしたちは個体として自足した状態で出会い
独立した固体同士がすえた臭いの中で
体液と汗となんかいろいろをその境目にどろどろと恥ずかしいほどに垂れ流し
なるべくぐちゃぐちゃになりながら


でも、暑いから。
だってこの暑さなら本当は1人で物憂げにしているくらいが丁度いいから。

だからあたしたちはあくまで二つの別の個体であり続ける。
そしてだからこそ艶やかなもう1つの個体に欲情し
セクシーな駆け引きを悦びとして楽しむのです。


これが、「好き」ということ。
健やかな人生と完全な個体を得た上での、人生の最たる悦びとしての恋。


夏の恋はそれはそれは野性的で動物的で短絡的でえらく野蛮なようですが。

あたしには
それは人間として、実に成熟した行為のように見えます。
身体機能や精神構造が依存しない、純粋な快楽としての恋。
そんな恋を楽しむということは
それはむしろ大人な、文化的な、インテレクチャルな行為なのではないかと。
(たとえば本当に殺気立った生殖行動の一環としてのものならそれはそれでまた話は別なのだけれど。あくまでそうでなくて、海と太陽とキャミソールとと強めの香水と汗疹と日焼けと蚊と西瓜に彩られたハッピーでサッドなシンプルでセダクティブなそんな恋のことね。)

一方冬の恋は、いつも本質的に苦しい。

まず考えて欲しいのはなんてったって寒いということだ。

1個づつの個体としてのあたしたちはとにかくあまりの寒さに震えあがる。
それは着込んでも着込んでもホッカイロを貼っても貼っても
いつまでも解消されない五臓六腑の奥の方の問題。
底冷えの底がどこなのか
そんなひどく抽象的なことをやたらリアルに感じ取れるような
余計なほどに研ぎ澄まされた寒さ。

それであたしたちは抱き合う。だって寒いのだもの。死ぬほど寒いのだもの。

そうしてあたしたちは、補う。
この1個の個体では解消されない問題を、物理的に解決する。
依存しあうことによって。あたしたちはお互いの熱を頼りに生き延びる。

けれど身体の依存はそのまま精神の依存を導き
キミはいつのまにかあたしの一部になり、あたしは当然のようにキミの一部になる。
固体を固体で補っていると、固体の一部は急速な熱によって液体になってしまい
あたしたちは本質的にとろとろになる。
とろとろとあたしたちはお互いの境界を越えてとろりと浸入する。


ほらもうこんな風になっちゃうとさ。
ほんといろいろめんどくさいよ。


一線を引くからそれはクールでホットでファンキーでエレガントで
別々の個体だからあたしたちはキュートなチラリズムで押して引いて引いて押すのに。


だってもうこれは「好き」ではなく「必要」だから。
もうあたしの一部はキミでキミの一部はあたしだから。
全てが切実で、いろいろ苦しい。
何より独りで生きていけないのは惨めだし、幼稚だ。
それにどうしたって哀しいし、垢抜けないし、やたら足掻くから醜いし、何もかもぎこちないし、


そして全てを台無しにしてしまうほどに見事にあたたかい。


そのあたたかさに
あたしたちは少しだけ泣くでしょう。
苦しくて辛くて悲しくて嬉しくて気持ちよくてとかじゃなくて。

ただそのあたたかさに泣くのです。

そう。

そういう季節がすぐそこまでやってくる。
あたしは楽しみにも思うし、ちょっと身構えもする。


季節に流されて、それか季節に抗って
いずれにしろ。


季節のせいにして恋をするなんて。

なかなか悪くないと思うのです。


September 16, 2005

たとえばなしが、スキ

完全にして超マッチョな硬派無宗教唯物論的思考が蔓延する我が家に生まれながら
何故か中高6年間というシシュンキの全てを
期せずしてプロテスタントの学校で過ごしてしまったのですが
(都内の中高一貫の女子校は、得てしてお嬢様学校感を演出するためだけに嘘でも何でもキリスト教色を強めがちです。キリスト教って、なんかヨーロッパで、なんかステンドグラスで、なんかマリアさまで、なんか歌もうまくハモってて、なんかこう、オシャレじゃない?ってきっと一般的教育ママ推定35歳前後VERY読者が思うからなのではないのかしら。あたしは知り合いのオネーチャンが行ってて、滑り止めに受けたら他全滅したってだけの理由で行ったんだけど。)


キリストの唯一にして最も尊敬できるところは
たとえばなしが得意だ、というとこです。
善と悪を、罪と罰を、兄と弟を、男と女を、都合のいいことと悪いことを
動物や植物や食べ物や人やものやその他いろいろなものに。
瞬時にたとえて説明する能力。
それは褒めてやってもいいかな、と思います。


たとえばなしが、スキです。ずっと昔から。

あたしはすぐ混乱するうえに
ヒト話の核ではなく周縁の方にやたらめったら気が散ってしまい
それについてぼんやり考えているうちにヒトの話がずんずか進んでしまい
気がつくと「聞いてないでしょ」と呆れ顔で顔を覗き込まれることが多いので
たとえばなしはとてもありがたいと思います。

ある事象を簡略化し、わかりやすくするためのおはなし。
複雑な世界の法則や抽象的で高尚なイメージを
ときに低俗な物言いでやっつける。
その本質をぐっと取り出し、違うもので説明しようとする試みは
それだけで楽しくウキウキします。
それにたとえばなしはそれをするヒトの趣味やセンスや生き様が零れてしまう。
だからあたしは嬉々としてたとえばなしに耳を傾けるのでしょう。

でも本当にスキなのは実はその向こう側のことだったりもします。

たとえばなしでたとえられるために持ち出されるコトやモノというものがあって。
タナトスをパンツにたとえるのなら、パンツ。
エキピロティック宇宙論を千枚漬けにたとえるのなら、千枚漬け。
スタニスラフスキーシステムを林くんの淡い失恋にたとえるのなら、林くんの淡い失恋。

そっち側の、コトやモノたちの行方。

たとえばなしがありがたく
その語り手の人生を覗くのが面白いことももちろんなのですが
それがちゃんと心に響いたとして、そのあとのあたしの日常のおはなし。


あたしは今度はそのたとえばなしによって
新たなものがたりを獲得するのです。正確に言うとあたしではなく、そのコトやモノたちが。
次の日からあたしは
パンツを見てタナトスを想い
千枚漬けを見てエキピロティック宇宙論を想い
林くんの淡い失恋を見てスタニスラフスキーシステムを想う。
そんなことを想うのは、きっとその場にいるヒトたちの中であたしたった一人だけで
それはうっとりとするほどセクシーな行為なのです。

そしてそのうち。しばらくこの悦びに浸っていると。
もっと危険な新しい遊びが始まります。


今目の前にある冷えたツナサンドはいったいどんなたとえばなしに使えるのだろう?
正しく置かれた伝票は?
さっきから通路に落ちたままのおしぼりは?
満足そうにソーサーに横たわる丸みの強い燻し銀のスプーンは?
ここで腿に乗せたPCにひたすら文字を打ちこむこのあたしの行為は?
もう6回も目が合った隣の男の子の履いているビンテージのプーマスニーカーは?
奥の席で熱心にエステの勧誘のコツについて語る男のやたらと目障りな左手の動きは?
それを聞いて頷き続ける栗色の髪の女の子が睨むように大きな瞳で店員を追うのは?


これは なんの たとえばなしに 使えるのだろう?
これは どんな 世界の秘密を わかりやすく 説明するのだろう?


そんなことを考えるようになるわけです。なんてことない風景をぼんやりと見遣りながら。
通常は脳内処理を行う前に振り落とされてしまうような些細なモノやコトに
拘泥して、留まり、遊ぶ。
それはなんて贅沢で、危険で、正しく病んだ、素敵な行為なのだろう。


全ての事象はなにかに酷似しているようで、それはやはり全く別のことだ。

けれど
ちいさなコトやモノに世界を見出すこと
すべてのコトやモノにものがたりを見出すこと

それは実は
予め定められたこの世界とここにある運命とを
根底から覆す方法なのかもしれない。

ミースの言うように、神は細部に宿るとして
(多分キリストとか八百万とか仏とかじゃないやつね)
そんなナンカの神に確かに手を触れてしまうような。
それで「踊ろうよ」ってナンパして「踊ろうか」ってスパークリングワインを呷って
そのリズムで世界を内側から台無しにして代わりに音楽で満たすような。
そんな健やかで蠢惑的なテロリズム。


日常を生きるときの些細なコトやモノはすべて

ドラマチックにその痕をこれ見よがしに残す大きな出来事と
重低音を轟かせやってくる運命と
なんだか勝手に周る世界と

実はきちんと繋がっていて、等しく素晴らしい。


大きなコトやモノと小さなコトやモノ。

等しく劇的であるということは、なんて感慨深いことなのだろう。

ほら。なんだか嬉しくて泣きたくなってしまうでしょう?
世界はどこかにあるのではなくてここにあって、神はここで腰を振って踊ってる。
想像することはいつだって自由だ。そうしてそれはやがて官能へと転化していく。

それは多分素晴らしくキモチイイはず。
世界はそうやって変わるし、そして変わらない。
どちらだとしても。

さあ。ところでこれは。

いったい なんの たとえばなしだったでしょう?


August 29, 2005

曖昧な関係が、スキ

あたしには

彼氏と恋人と愛人とダーリンとセフレと大事な人と運命の人と命の恩人とパートナーと友達と仲間と同志と師匠と双子とお兄さんと弟とパパと息子とペット

がいる。

これは、各肩書きに1人ずつ、と思ってもらってもいいし
各肩書きに3人とか17人とか複数人いると思ってもらってもいい。
全部の肩書きを持つたった1人のスーパーマンがいる、と思ってもらってもいいし
そもそも真っ赤な嘘だと思ってもらってもいい。


正直なところ、あたしにもどれがほんとうなのかは、よくわからないのです。


人を、特に男の子を人に紹介したり、説明したりするとき。
あたしはいつだって本当に途方に暮れてしまう。

「彼氏です」は、「つきあおうよ」って言っていないと公然とは使えないらしいし
(なんかそうみたいだよ)
「双子です」は、血縁的にそうなんだと思われて無駄に場が盛り上がってしまうし
「友達です」は、なんかこう物足りないし
「師匠です」は、どういう意味で師匠なのかについて30分くらい説明しなくちゃいけないし
「愛人です」は、そもそも白昼堂々宣言することに違和感を覚えるし

なにより、そんな一言で。
それもそこらじゅうにうんざりするほど落ちている一般名詞で。


あたしと、あたしの人生にわざわざ踏み込んできてくれた人との関係を
そんなそんなそんな当たり前の一言なんかで易々と括ってしまいたくないのです。

あたしと、キミとは、1対1で向き合って、関係性を築きあげて、


そう。


それは、粘土細工のよう。
2人の真ん中に置かれた粘土の塊で
ぺたぺたと2人きり、一緒にナンカの形をつくりあげたのに。
その形を見て勝手に
「蝶だ」とか「リボンだ」とか「春だ」とか言いたくないんです。


たとえ途方に暮れるあたしを心配した優しいキミが
名前をつけてしまうことに同意して、

「そうだね、じゃあこれは蝶だね」

って親切に保証してくれたとしても。
あたしはなんだか
スコーンと内臓が深海の暗闇へと引っ張られて落ちていってしまうような。
絶望的な哀しみに襲われるのです。


もちろんあたしだってもうなんだかんだで四半世紀生きて
うまくやってくためにはそんなことも言ってられないってこともよくわかっています。

こんなこと言ってると
遊ばれるだけの都合のいい女になるとか
(この「遊ばれる」の定義もイマイチよくわからないけど。)
紹介するたびに長々と2人の歴史を喋っていると紹介される側は辟易するとか
(酷い場合は、本題に入る前にいなくなる。)
相手を深く傷つけてしまったりするとか
(名前をもらうと安心だから。名前をもらえないと不安だから。それは最近ようやく実感を伴って少しわかった。)

それぐらいは学習しました。

だからあたしもスマートに。
「友達の○○くんです」とか、「彼氏の××です」とか。
近年は腹を括って言うことにしています。
でもやっぱり言った後はすごい気持ち悪くてむずむずするし、いちいちストレスが溜まる。

諦めの悪いあたしはそのむずむずに耐えられなくて

「友達っていうかなんていうか…」とか
「一応彼氏ってことになってます」とか
「精神的セフレといった存在ですかね」とか
「言うなれば文学的な意味での恋人という概念に一番近いかと思われます」とか
「双子かと思うくらい手相が似ている仕事仲間なんですけど気持ち的には師匠のように敬っています」とか

やっぱり余計なことをくっつけてしまって
なんだかその分余計にぐったりするのでした。


でもこうやって、ああでもないこうでもないって
そんな風に悩むほどに、曖昧な名前のつけられない関係の方が
ずっとステキで、ずっとずっとイイと思うのです。
そんな曖昧な関係の方が、きちんと1人1人が大事にされてるはずだと。


だからあたしのことも、
「彼女」とか「友達」とか「妹」とか、躊躇わずに言わないで欲しい。
同じくらい傷ついて同じくらいもがいて同じくらいあたしについて考えて欲しい。

ありふれた関係も、ありふれた名前も嫌いなのです。

それにそうしておけば。


世間の常識とは関係なく、自分ルールの関係性がつくれるのです。


「友達にはキスしない」とか
「一番尊敬できる人を彼氏にしなさい」とか
「仲間に手出すなよ!」とか


よくあるじゃん?そういうの。


そういうの全部。鮮やかにすり抜けたい。


すり抜けてキミと2人でお腹を抱えて笑っちゃいたいんです。

「なんなんだろ、あたしたち」
「なんなんだろーねえ」
って

笑って揺すった肩をぶつけながら手を繋いで。
追っ手も全部振り切って、笑いながら逃げ切りたいんです。


こんなことも、そう。
曖昧な関係のステキな人たちに、あたしはかつて、教えてもらったのでした。

ありがとう。

August 12, 2005