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yoridorimidori

February 13, 2011

玉ねぎが、スキ

玉ねぎがスキで、特に火を通したものがスキで、
昔からフライドボテトとオニオンリングの選択肢があるファストフード店では
なんの迷いもなくオニオンリングを選択してきたけれど
蒸し野菜の素朴さと贅沢さに目覚めてからは
もう本当に、玉ねぎを蒸しては、そればかりを食している。


野菜に生まれ変わるなら、玉ねぎになりたいと思う。


なにより、いろいろと表情があるのがよい。
生のままだと苦くって辛くって
切る時なんて相手に涙を流させるほどの攻撃力を見せるのに
ちょっとあっためただけで
それはそれはいとも簡単に甘くなってしまう
そのギャップが愛おしい。


火が通ってゆくにつれて白が透明になっていって美しい筋の模様が際立って
最終的には飴色になるのもうっとりするようなロマンチシズムを感じてしまうのだ。


そもそもあのぽってりとした丸い形状もとても魅力的で。
何層にもなっているからといってどんどん剥いていくとただ中心にたどり着く。
外と中の境目が曖昧な部分もよい。外は中に自然と続いていく。


それに和食・洋食・中華はもとより、ベトナム・インド・イタリア・韓国、
どんな料理を相手にしても玉ねぎは臆することなく対峙する。
相手に染まることなく、自分を主張しながらも、見事なアンサンブルを奏でるのだ。


実は昔は
かみさまが配置したような美しい穴に感動し、
一番好きな野菜は、圧倒的にレンコンであった。
でもあれは憧れであって、自分がなるには少し難しい気がしている。
美しく凛としていながら、しっかりものな和風美人な印象。
質素堅実でありながら、たおやかで微笑みを絶やさないような。
残念ながらあまりにも素質を持ち合わせていない。


他にもトマトや人参も好きだけれど
あんなに陽気な人気者を目指すのもちょっと気が引ける。
生姜やニンニクはもうちょっと人生経験が必要だ。
そうやって考えていくと、もう玉ねぎ以外にはありえないのだ。




嗚呼、玉ねぎになりたい。
そうして美味しく食べてもらえればいいのに。


今日も丸のまま玉ねぎを蒸して、
その白い艶やかな肌に触れながらそっと目を閉じる。


その日のことを、夢想する。

May 18, 2008

居心地の悪そうなひとが、スキ

なんというか
自分はことごとくいつもマージナルな場所にいるなあと、思うことがよくある。


ジャンルや業界を好き勝手に行き来しつつ創作活動をしてみたり、
周りに似た例の無い職業ばかりに就いてみたり、
幼少期の記憶が日本語と英語ぐっちゃまぜだったり、
東京都の果てに住んでみたり、
ふるさとが無かったり、


グループにも業界にも土地にも国にも世界にも。どこにも。
属している感覚がとても薄い。
(だから特に「どこにも属したくないんだ!」とも思わない。属してないからね、元々。)
よそもの。ブガイシャ。異邦人。


そのため、
どこのコミュニティの集まりに呼ばれても、なんとなく中心の話題に馴染めない。
話題に馴染めないどころか、空気にも馴染めなくて、
そうなるともう何もかもわからなくなって、

どうやって立っていればいいのか、どんな酒を選べばいいのか、名刺交換とかむしろダサいのか、肩は見せるべきか隠すべきか、グロスは塗り直した方がいいのか、ハイタッチが今イケてるのか、


途方に暮れて、居心地の悪さを必死にごまかそうと
「あー。はいー。えへへー。なるほどー。」を適当に繰り返しながら、
ぼんやり他のことを考えながら時間をやり過ごすことしかできない。
いっそのことごまかさなければいいんだけど、
あたしはまだ未熟者だからなかなかそこまで思い切れず反射的に足掻いてしまう。
属セル?属セマスカネアタシ?
足掻いてしまうから情けなくて、
情けないからもっと途方に暮れて、
暮れているうちに置き去りになったあたしに気づかずに、
夜は噂話や裏話や批評やギャグや打算や恋を周到に加速させ盛り上げて更けていく。




だから、あたしは自分よりも数段居心地の悪そうなひとがスキだ。




あたしと同じぐらい居心地の悪そうなひとでは駄目。それじゃおんなじだ。
もっと正しく居心地が悪そうで、この世界にすらもっと正しく属せていないひと。
そういうひとがやたらと気になってしまう。


そういうひとは見ればすぐわかる。
そういうひとはソワソワもモジモジもイライラもしない。
そういうひとといってもいろいろいて、
会話も少なくて、ひとりぼっちでいることが画として美しいひともいるし、
精巧なマシーンみたく軽妙な受け答えが得意で人気者のひともいるけれど、
いずれにしろ、
そのひとの周りだけ空気は違う色をしていて、それはとてもわかりやすい。
その色を見逃さないことは、あたしのちょっとした特技だ。


思えばあたしの人生に大きな影響を及ぼしてきたひとたちは、
みんなそういう風に居心地が悪そうなひとたちだった。
粋がってこの世界に属さないのではなく、属せないことを受け入れているひとたちだった。
彼らはこの世界に正しく属せていない代わりに、
それでも生きつづけていくための魔法を持っていた。


その魔法が欲しくて欲しくて、見たくて見たくて、
あたしはいつもいつも抗えない引力で彼らに吸い寄せられていってしまう。
結局、あたしにだって、彼らは属せないのだけれど。


そうしてあたしの人生は、今でもそんなひとたちの魔法に支えられ続けている。




さて。
どうやったらもう数段、居心地の悪そうなひとにあたしもなれるんだろうか。
そしたら魔法も手に入る?


もっと居心地の良さそうなひと、もっと居心地の悪そうなひと。
サカイメにばかりいるあたしは、またその狭間で、結局途方に暮れている。

November 23, 2007

甘やかして、甘やかされるのが、スキ

最近
本気を出せば、結構一人でやっていけるものだな、と感じている。
なんだって、やる気になれば、あたしは割とできちゃうんだな、と。


いやいやでました勘違い娘それ自分が思ってるだけだってばほんと天然だわウケルー
というひとも
そんなことよく知ってますよ賢いデキルおねーさんじゃないですか何を今更改まって
というひとも
子供がいてもおかしくない年齢なのになにを馬鹿なことをほざいてるのまったく呆れるわ大人なんだから一人で生きていけなくてどうするのほんと子供でも産んでみればいいのよほら
というひとも
何を言ってるんですかあなた人という字を見てくださいほら支えあってるでしょ孤独なんてないんです人は一人では生きていけないほらそのお米はどこの誰がつくってると思ってるんですか
というひとも


いると思うけれどあたしが言っているのは多分
もうちょっと感覚的でもっと個人的で場合によってはずっと具体的なこと。




どんどんどんどん。


あたしが
誰にも甘やかされず、誰も甘やかさず、
それでもいつのまにか平気に生きていけるようになっている。そんなこと。




自立した大人としてなるべく多くのことを一人できちんとできた方がステキに決まっているし
それに結構その方が自分も楽だったりする。
自分の思い通りに自分が動けて結果を出せることは
それがたとえばお風呂場のカビを根こそぎ取ることだろうが
宇宙的に壮大なプログラムを書くことだろうが
いずれにしろ割と気持ちのいいことだ。


それなのに、甘やかされると、人はいとも容易く駄目になっていく。


できるはずのことだってどんどんできなくなる。
最初はたとえばいつだってやろうと思えばできたとことでも
みるみるうちに、本当にできなくなってしまう。
平気だったはずのことも
地道な訓練を重ねて平気だってことにしたはずのことも
あっという間にダメになる。
子供が親に甘やかされるのとはちょっと違う。
ずっと自覚的で、ずっと厄介だ。


年をとればとるほど、あたしたちは取り返しがつかない。


だから甘やかされない毎日や、甘やかさない毎日は、とても平穏で堅実だ。
自分もスポイルされないし、人もスポイルしない。
何も失わない。
そういうきちんと一人である人たちが二人一緒にいるということは
とてもバランスが良く、爽やかで、正しい。
一人+一人の二人。




だけどどうしてか。
性懲りも無く。
鬱陶しいほどに、あたしはあの感じに、今なお強く惹かれ続けている。


徹底的に甘やかして、取り返しがつかなくなるまで甘やかされて、
一人では圧倒的に足りなくなってしまうあの感じ。
正しさも健全さも微塵もなくて
ただみっともなくて我侭で無様な二人に成り下がっていってしまう、あの感じ。
なんにもいいことないけれど


それでも二人がそこにいるための揺るがない理由が明確にあるということは


それだけでちょっと羨ましいと思う。


それが短絡的だとか大人げないだとか絶対不幸になるだとか視野が狭いだとか頭が悪いだとか
言われるような感じだとしても




少なくともあたしは結構幸せだったから。






甘やかして、甘やかされた、むかしむかしのあの感じ。
むかしばなしになる頃には、またきっと。

June 10, 2007

疾走が、スキ

疾走というコトバが好きで。
その長続きしない感じとかも好きで。
たぶん疾走してるときの走り方ってどうしようもなくみっともない気がして。
正しいフォームとか、取れる筈なくて。
(だって、それは一つの病だから。疾走とは、走る疾患なのです。)


だからこそすごくキレイだと思うのです。
みっともないぶん、イトオシク輝くのだと。


でたらめな速度はムゲンダイで。
混乱したメーターは、振り切れると決まっているので。
めちゃくちゃに走ればそれに勝るスピード感なんてないのです。


育ち盛りの健康優良児が100mを走り抜くことと。
瀕死の使者が渋谷から日比谷へ必死で疾走すること。
60進法で整然と計られた数値は
最早おおっぴろげに投げ出されたみっともなさの前ではあまりにも儚く

疾走する。疾走する。
それはとにかく魅力的なスピードなのです。



(ちなみにスピードに乗って声に出して言ってみましょう。
 「瀕死の使者が渋谷から日比谷へ必死で疾走する」
 言えましたか?言えませんか?
 言えないのなら腹を立てて言えるようにがむしゃらに何度もチャレンジしてください。
 たぶんみっともなくも魅力的なスピードが、そこにも。)

March 17, 2007

あの傘が、スキ

傘を持っていた。
もう10年以上昔のことだ。



倉庫行き直前のものたちが、埃に塗れてひっそりと暮らす、玄関前にあるクローゼット。 その奥底から見つけられ、親に捨てられそうになっていたその傘に、あたしはごく平凡な土曜日、思いがけず運命的な一目惚れをした。それは赤い小ぶりの傘で、 内側にはチェックの裏地がついていた。ワンタッチで開くタイプで けれど少し曲がった柄を擦りあがっていく金具は いつもぎこちなくゆっくりで 、格好良さも高級感も微塵もなかった。 なんてことない傘。 取り柄という取り柄もない、なんてことない傘だった。なのにドキドキした。ばかみたいに。どこがいいのかもわからない、赤い、チェックの、ワンタッチ開閉の、傘に。それはあたしに属したがっていた。あたしはそれに属されたがっていた。それだけのこと。けれど強烈に引っ張っていくチカラ、みたいなもの。


そうして、ただでさえ雨が好きだったあたしはそれからことさら雨が降るのを心待ちにして、降れば必ず、その傘を差した。濃い赤とチェックが雨の中滲むのを、あたしはずっと飽きずに見ていた。内側から、外側から、どこから見ても見惚れた。

それは、ひとつの恋だったのだ。

:::::::::::::::::::

事件が起こったのはある蒸し暑いむんとした夏の朝だった。

その日降水確率に胸を弾ませ、赤い傘を持ったあたしはいつものようにたまプラーザ駅から三軒茶屋駅に向けて急行電車に乗った。日常的な地獄。朝の満員電車は不快だったが、そんな不快にも人は慣れるようにできている。どこで力を入れて、どこで抜いて、どこまで人に寛容であり、どこから突き落とすか、という微妙な加減もいつの間にか身に染みついていくのである。やがて電車は溝の口に到着し、あたしは降りる人たちの波に呑まれて一度ホームに降り立った。降りる人たちと入れ替わりに、必死の形相で汗臭いオトナたちが乗り込んでいく。彼らの勢いに負け、降りるのは一番最初だったのに、あたしは一番最後に乗り込むことになった。最後と思って乗り込んでも、発車を待っている間にどんどんと、ドアが閉まる直前まで走りこんでくる人々。オトナになってもこんなことしなきゃならないなんてなんかかわいそうだ。向こうからしてみたら、若い頃からこんな目に遭うなんて、と、こっちの方がよっぽど同情を買っているのかもしれないけれど。


押し寿司の具のようになっても尚、あたしは大事な傘を失くさないよう、しっかりと握っていた。けれど傘の柄は握っていても、二人の巨大なオトナたちに挟まれた傘の先っぽは、努力も空しく、ずるずるとドアの方へと流れていった。ちょっと気を抜くと、いろんなものが人に流されてしまう。あたしの右手は痺れてしまって、とてもじゃないけれど傘を体の方に引き寄せることはできないままでいて、赤い傘の下半分ほどは、まもなくあたしの視界から消えた。駅員が来て、人々を詰め込み、ドアを少しづつ閉める。そうして電車は可哀想になるような重量を背中に乗せてそれでもなんとか次の二子玉川園駅までカラダを引き摺りながらだらだらと走っていった。


大井町線の走る二子玉川園駅ではいつも大量に人が降りる。ドアが開くと、人々は暴発したライフルの弾のようにホームへと転がりでた。あたしももちろん否応もなく押し出される。むんとたっぷり水分を含んだ外の空気を心ゆくまで吸った。夏はもうすぐそこまでやってきている。そんなことを知らせるような生温い風が撫でた。都会の空気は汚れているというけれど、それでも吸わないよりはましだ。

そのときだった。

ふぅ、とちょっとはましな外界の空気を吸って、もう一度電車に乗り込もうとしたあたしが、ふと下に目を何気なく遣ると、あたしの右手には、折れ曲がってボロボロになった一本の傘があった。形があり、機能があるものが一瞬でただの物体になってしまうものなのかと驚くほどに、それはジグザグに折れ、赤い布に黒い線のような跡までついて、見事に死んでいた。それは最早傘ではなかった。金属と布のどうしようもない塊。意味を為さない骨壷の中の灰と一緒だった。


あたしは呆然とそこに立ち尽くし、一層太った急行電車はあたしを置き去りにして同じスピードで走り去った。


次の瞬間、気がつくとあたしは反対方向の電車に乗っていた。自分でも驚くほどの怒りで、あたしは震えていた。傘の壊れ方からして、傘は人と人とに挟まって壊れたのではなく、ドアとドアとに挟まれたことは明らかだった。そしてそのドアのそばでは、自力ではもう閉まらないドアを、人を押し込めながら閉めていた駅員がいたことをあたしは覚えていた。わざとなのかわざとじゃないのか。わからないけれど、あの駅員にはこの傘を救えたはずだ。きちんと傘が挟まらないように、ちょっと手を添えてドアをゆっくりと閉じる。それだけのことでよかったのに。憎しみが沸き起こる。溝の口の駅の様子が何度も頭の中でリピートされる。手、帽子、声。駅員の部分が頭の中を漂う。その隙間をうねるように埋めていく怒り。反対方向の電車は、10分もしないうちにあたしをもう一度溝の口の駅に下ろした。あたしの足に、ためらいはなかった。溝の口の駅構内を闊歩して、あたしは真っ直ぐと駅員室へと向かった。がらんとした駅員室の窓ガラスを割れんばかりに何度も叩く。奥の方から出てきた年配の駅員は訝しそうにあたしを見ながらも、丁寧な口調で、どうしましたか、と聞いた。

ちょっと、あのですね、すいませんけど、えーと、要するに、あたし、急行に、今さっきの、乗ってたんです。2番線です。水天宮前方面です。そしたら、この駅の駅員が、こう、ドア係をしていて、あたしの乗ってたところの、で、あたし、この傘を持っていて、でもこの傘が、人に挟まれて、ドアの方にいっちゃって、でもどうしようもできなくて、そしたら、駅員さんが、ドア閉めるときに、この傘、ドアに挟んで、でもあたしの位置からは、見えないじゃないですか、で、二子玉川で、下りた時に気づいて、傘、こんなんなちゃってて、ひどいじゃないですか?知ってて、見えてて、挟むなんて。ちょっと、こう、ちょっと、角度とか変えて、ちゃんと入れてくれることだってできたのに、なのに、こんなん、なっちゃってて、あたし、おかしいと思うんです、そういうの、絶対、なんていうか、とにかく、おかしいと思うんです、だから、今、二子玉川から戻ってきて、言いにきたんです。

ああ、そうですか、と駅員は言った。
それは申し訳なかったです、弁償しましょう、その傘、おいくらだったんですか。

駅員はそういって冷ややかにその情けない傘を舐めるように見た。




あたしは、気づくとその場で号泣していた。


さすがに慌てた駅員は、1万円でいいか、とか、駅員の顔覚えてるのでしたら、直接謝らせますが、とか、いろいろ遠くのほうで言っていた。

でも、あたしは、気づいたのだった。

あたしは
金も謝罪も反省も、そんなものは何一ついらなかった。

あたしはただ、
恋人の喪失を、1人で抱え込むことができなかったのだ。


誰かに
あたしと傘と恋と喪失を
ちゃんと知って
そして一緒に泣いてもらいたかったのだ。




ようやく泣き止んだあたしは、今更少しオトナぶって言った。

いえ、いいんです、ただ、今後気をつけて頂ければ。取り乱してしまってすみません。大事な傘だったもので。お金はいりません。この傘が返ってくるわけでもないので。お騒がせしました。失礼します。


呆れて見送る駅員の視線を背中に感じながら、あたしは学校へと向かった。


学校に行ったら、笑い話にして話そう


そう思ってあたしは、その通りにした。






それから月日は恐ろしいほど経ち、あたしはいくつもの傘を持った。
多くは安いビニール傘で、買っては失くし、また買った。


なんであんなにあの傘が好きだったのかはよくわからない。
けれどあの傘が好きだった、あの感情が、本物であったことはできれば信じたいと思っている。


今ではあれでよかったのかもしれない思う。
ずっと一緒にいて、マンネリになって、なんとなく飽きて嫌になってしまったよりは。
そんなことない、と昔のあたしは怒るだろうか。
それとも昔のあたしは、それすらわかってて泣いたのだろうか。


それに逆もあるのかもしれない。




あのとき、傘が、あたしを見捨てたのかもしれない。




もう一生会えないけれど
あたしにとって、今でも傘は、あの傘だけだ。


そしてそれは、きっとずっと変わらないのだろう。




この好きは、決して、過去形にはならないのだ。

February 17, 2007

泳がないのが、スキ

沈むのや浮かぶのはスキだけど。
泳ぐのはなにか納得がいきません。
それはあたしの水泳技術ではクロール50mが限界だということとは関係ありません。
一切関係ありません。




とにかく
要するに
何が言いたいのかというと
ヒトは泳ぐべきものではないような気がするのです。


健康のため。遊びのため。競技としてタイムを争うため。
いいじゃない。いいんじゃない?
別にそれに対してとやかく言いたいわけではないのだけれど。
それはそれとして。
楽しんでいるヒトがいるのはそれとして。

純粋にその行為だけを抽出して
「うーん」と首をめいっぱい傾げたなら
なんとなく


「ヒト」
(イメージして下さい。手とか脚とか頭とかが割と頼りなく縦に長い感じで配置されています)

「泳ぐ」
(イメージして下さい。4種類の泳ぎ方に犬掻きなど独創的なものも加えましょう)


のは、無理がある気がするのです。

海や川を支配する魚たちは鮮やかな身のこなしで水圧を分散し
その波と波の狭間にあたかも道が用意されていたかのように流れるように泳ぎます。
哺乳類のイルカや鯨だって、あのぬめりのある肌は水を味方につけたようでずっとお似合いです。


あたしたちはただ手や足をばたつかせ
肺呼吸も止められず
かといって美しく飛び上がることもできずに必死に水面上に口を突き上げ
自然界に痛めつけられた皮膚を引き摺る




それはなんだか
やっぱり虚しいほど不恰好な気がしてしまうのです。




ヒトが水と戯れる正しい方法。
それはやはり
浮かぶか沈むかしかないような気がします。


水と空気を半々に染みこませながらひたすら漂流するか
強大なエネルギーに巻き込まれゆっくりと瞳を閉じるか


たぶんどちらも泳ぐのよりはずっと自然で
ときには可笑しいほど
ときには哀しいほど
ひどく美しい。




流れに任せることの正しさ。
正しいことは美しいのです。




(とはいえ醜いもののほうが魅力的だったりすることもあって。そのお話は、またいつか。)

June 24, 2006

ウィスキーが、スキ

あたしの部屋には長いこと、常にウィスキーが一本、切れることなく置かれていた。


みんなと外で呑んでいるとき、あたしが呑むものは大体決まっている。ビールはお腹がたぷたぷするから嫌いだし、焼酎はなんだかトキメキが足りない。シャンパンは好きだけど高いし、安物のワインは悪酔いする。日本酒は帰る気が無いときにしか呑めなくて、そんなのあたしは滅多にない(意外かもしれないが、明日の予定は結構気にする方なのだ。日常はたまに大きく乱すからよいのであって、しょっちゅう乱してちゃ勿体無い)。そんなわけで結局、あたしはスプモーニやカシスソーダなんかを口にする。着てる服と、よく似合うのだ。綺麗な色のフルーツ系カクテルは。


だからあたしがウィスキーを呑むのはとても特別なときだった。
ウィスキーを呑むときはいつも、そのウィスキーよりも苦い何かを忘れたいときだった。


何かしんどい事情を抱えたとき
その事情の大きさに応じて、あたしのアルコール摂取傾向は変化する。
最も軽度なときは運悪引っかかった友達を巻き添えに、カクテルを止め処なく呑む。
その次はもっと運の悪い友達と、やっぱりどこかのお店でウィスキーを水割りで。
更に酷い場合は一人で部屋でウィスキーをロックで。
最悪の場合は、もう瓶に口をつけてストレートのまま内臓に流し込む。


あたしは呑むと顔が赤くならず、どちらかというとどんどん青白くなっていくのだけれど、これはどうやら肝臓がうまく機能していないらしく、お酒には弱いようで。ストレートで流し込んだウィスキーはあっという間にあたしの身体の自由を剥奪する。泣きながら呑んでいると、水分がどんどん出て行くから、きっとアルコールが体を駆け巡るその濃さも結果的に粘るほどに濃くなっているのではないかと、その粘り具合なんかをいつもぼんやりと想像する。カラダがどんどん熱っぽくなるころには、次第にそんな想像もままならいほどの吐き気がこみあげてくるのだけれど、それでもそこで止めてはいけない。気持ち悪いのに無理してさらに呑むと、当たり前だけどさらに気持ち悪くなって、そう、当たり前なのに、そんなことが小気味よかったりする。ほら、予想通りだ、と。あたしの予想通りに進む物事も、この世界にはまだあったんだなあ、と。


そのうち全身が痙攣して、そうするとあたしはようやく全てを吐ききることと、早く眠りたいということ、それ意外は何も考えないで済むようになる。トイレにぺたりと座り込んでいると、なんだか自分が無力で奇妙な形をした物体のような気がしてきて、そのうちそれがとても愉快になる。嗚呼、きっと今ならあたしはこのままトイレに顔を突っ込まれてそのまま排水溝へと勢いよく流されていっても、ケラケラと笑い続けたりできるんだろうな、とか。しょうもないことばかり考える。


そうこうしながら、僅かばかり残された理性を掻き集めて、なんとかベッドに倒れこむと、大抵は頭痛と耳鳴りと吐き気に襲われて、とても眠れるような状況じゃない。あたしは、ひたすら知らないカミサマに祈る。嗚呼、もう望みなんて何一つ叶わなくていいから、とにかく今すぐ痛みという痛みを全部取り除いてとりあえず深く、眠らせてください。今眠らせてくれるなら、他のことはなんだって諦めて見せるから、と。




こんな風にして
数々のデカダンとメランコリーの季節をあたしはやり過ごしてきたのだけれど。
近頃、あたしは思いがけない壁にぶつかった。


あたしがウィスキー、特に部屋に常備されているジェイムソンを呑むときというのは、大抵吐くために呑んでいるようなときで。それを、あろうことか、あたしの優秀な体は遂に学習してしまったのだ。最初のうちは、睡眠不足だからだとか、お腹が空きすぎて胃に穴が空いたのだとか、適当な理由をつけて騙し騙し折り合いをつけていたのだけれど、誤魔化せないところまで、それはすぐに進行した。最早あたしがジェイムソンに口をつけるや否や、体は吐く用意を始めるようになったのだ。オートマッチクに正確に。その情報はあたしの全内臓を操縦するようになった。


さすがのあたしも、泣き止むまでの数時間、何回かも瓶を逆さまにして天を仰いで苦吟したいわけで。一杯目で吐いては、こちらのシナリオが崩れてしまう。酔えない。情緒も何もない。ただの気持ち悪い人だ。




そういうわけで、仕方なく。
部屋の風景の一部となるほど長いこと深い緑色の瓶が君臨していたCD棚の上では
今はアマレットの大瓶が澄ました顔で微笑んでいる。




アマレットは甘い。

何杯も呑めば、もちろんお酒に弱いあたしは酔うのだけれど、その酔い方はウィスキーなんかとは到底比較にならないほど、ずっとずっと甘い。甘やかなアリジゴクの巣の中に引きずり込まれて、螺旋を描きながらだるく落ちていくような。そして麻酔が効いている中で、ゆっくりと四肢が美しい妖怪に喰いちぎられていくような。たとえ吐くまで呑んでも、吐いたあとの口障りはずっとなめらかで甘ったるく、ジェイムソンのときのあのざらざらしてツーンとした感じとは違う。それに何より、アマレットは、いい気分のときにだってちょっと呑みたくなる。ただただ甘い気分に浸りたいときや、ほろ酔いで眠りたい夜にだって。


それはつまり、全然特別じゃないということで。
そしてとても美味しいお酒だということだ。


家にあるグラスで一番キレイな薄紫色のグラスで、カラカラと氷の音を立てて味わいながらアマレットを呑むあたしは、とてもオトナのように思える。かわいらしい、上品な、オトナのオンナ。あまりにそれが素敵な気がして、そしてそれがあまりにも珍しく思えて、最初の頃は呑んでいる自分を鏡で見て、「うん、オトナだ。」と確認してみたりすらした。忘れたいことや苦しいことがあった日でも、アマレットを呑めばあたしは甘くとろけるような場所に連れて行かれてしまう。排水溝みたいなぐちゃぐちゃでどろどろでメッシーなところで自暴自棄になってしまうこともない。


どうだ、これは実際オトナではないか。
嗜好品を嗜み、夜を甘くして、にっこりと微笑む。
苦しいことは静かに受け入れ、去るものは追わず、失ったものを諦め、夜を慈しむ。
やればできるじゃないか。
ほら鏡を見て。大丈夫、あなたの横顔は今、とても「オトナのオンナ」だ!
いいんじゃない?この線もいけるんじゃない?
嗚呼、なんて素晴らしい発見!そして進歩!






けれど、アマノジャクなあたしは。
やっぱりね。
港の荒くれ者のように、ウィスキーを瓶呑みして、ひどくみっともなくなってしまう自分を失いたくない、と思うのです。


あたしにとっての人生は、そっち側にあるような。




今は多分時期じゃない。
だけど予感はもうあるのです。


ウィスキーじゃなきゃダメなときが、きっとまた訪れる。




世界が転覆していく中、全てを放り投げ、全力でみっともなくならなくてはならないときが。




あたしは今、そのときが楽しみで仕方ない。
アマレットは美味しいし、オトナなオンナなあたしもちょっと捨てがたいから、アマレットの場所は取っておいてあげよう。

だから、その奥に。そうだな、灰皿の隣かな。空気清浄機の場所をちょっとずらそう。


同じ棚の上に、また遠くないいつか。

お気に入りのウィスキーを、きっとまた、並べるのです。

May 28, 2006

エンドクレジットが、スキ


いろんな人がいると思うけれど
映画を見るとき、あたしはエンドクレジットは最後まで見る。


深く腰掛けた椅子の上で余韻に浸りながら、こっち側にゆっくり戻ってくるための時間として必要なのなのかもしれない。
あとはあたしが少なからず映画産業に関わってきた人間だから、身内的気分で作り手側の情報が気になるからなのかもしれない。


けれどおそらくあたしは、もうちょっと純粋にエンドクレジットにやられている。


その数。
夥しい数の人の名前が羅列された長い長いリストに、あたしはただただ圧倒されるのだ。

大きいフォントで最初にゆっくりと登場する名前たちはいい。
あの役をやった人がこの人なのね。
ほー。あ、この人うまかったなあ。あ、こいつイマイチだった。
そうだな、10人ぐらいまではわかる。
でもそのあとだ、エンドクレジットの本当の凄さは。

字はどんどん小さくなって、名前は加速度的にずらずら流れてくる。
どこにそんだけの人が出ていたのか全く想像がつかないほど、たくさんの名前がこれでもかっていうぐらい羅列される。
この2時間そこそこの作品をつくるのにこれだけの人が関わっているということ。
そのことにあたしはただただ圧倒されるのだ。
現場を覗き見てきた人間として、そんなことは重々承知されているはずなのに、
実際クレジットが流れていくのを見ると、いつでもあたしは泣きたくなってしまう。
それは単純な嬉しさとか、感動とか、そういうことではない。
圧倒なんだ、多分。もっと説明つかない感じ。
たとえその人が胸の中で「これクソ映画だなあ」と散々毒づいていたとしても。
たとえ関わったことさえすでに忘れてしまっていたとしても。
それでもその人たちは、実際、確実に、その映画の一部で。
で、ひたすらそういう人、人、人、の、名前。名前。名前。
ものがひたすら羅列されるという状態の静謐な美しさも手伝って、あたしはもう動けない。
ひたすらその名前たちを目で追い続ける。闇が明け、光が戻り、ドアが開くまで、ずっと。


ところであたしは自分の人生を映画として認識しがちだ。
自覚的なわけでは無いのだけれど、ふと気づくとそうしてしまっている。
(舞台出身なんだけど。不思議。)

たとえば一人で道を歩いているとき、あたしは大概自分にナレーションをつけてしまう。
道を歩いている自分の映像につけるのにぴったりのナレーションが、頭の中で鳴り響く。
(このおかげであたしはナレーションにだけはちょっとだけ自信がある。ナレーションの方が本編より得意なんじゃないの?)
それにカメラ位置もコマ割もきちんと浮かぶ。
あ、ここ。今。今アップね!左側からおさえてね!
そんなことをつい考えてしまっている。


人生が映画的と言っても
それは別にあたしの人生が劇的でもんのすんごい壮大なストーリーによって支えられているというわけではない。大袈裟なハリウッド映画とわかりやすい邦画と涙涙の韓国映画だけじゃないのだ、映画といっても。泣いたり喚いたり日々青春で、あげくすぐ人が死んだりとか、成田で一悶着あったりとかね。そういうわけじゃない。多分。

多分。

不条理極まり無い映画だったり、ナンセンスコメディだったり、前衛的な実験映画だったり、静かな眠い系だったり、バイオレンスな格闘系だったり、エログロ系だったり、やっぱりストーリー性のあるラブストーリーなのかもしれないけれど、

あたしはまだこの映画、道半ばなので判断がつかない。
ひょっとしたら今までは序章でこっからどんどんSFかもよ?
(でもホラーだったらやだな。サスペンスも。それだけはなんとか避けたい。)

どんな展開のどんな映画なのか。
それは想像するとちょっと楽しい。

でもそれよりも。
もしこれが映画ならば、あたしが一番楽しみなのは。

やっぱりエンドクレジットだと思うのです。

大きい役や小さい役。いろいろあるけれど。
たとえばあたしが道端で見て憧れたレースのたっぷりついた藤色のワンピースを身に着けたおばあさんだって
たとえばあたしを最悪な気分にさせたやたらもたれかかってくる排水溝の匂いを放つおじさんだって
たとえばあたしに気づかないまま素通りした運命の人だって


この画面に収められた人、みんな。
みんな丁寧に。

あたしはきちんとクレジットしてあげたいのだ。


それでできればそのエンドクレジットをじっと闇の中最後まで見たい。
思い出せる人思い出せない人
知ってる人知らない人
セリフのある人役名の無い人
エキストラもスタッフもみんな


で、きちんとありがとう、って言いたい。
思い出したくない人も思い出せない人も誰だか全くわからない人も。
一人一人の名前をきちんと噛み締めて。


照明部も音響部も制作部も他諸々のスタッフ・スポンサーも誰一人(っていうか人ですら無い場合もあるけど)自覚的に手伝った覚えは無いと思うけれど


とにかくもうなんだっていいよみんなだよ、みんな。


みんな。それで、打ち上げに来ればいいのに。

お疲れ様でしたー!

って言って乾杯したい。
あたしが奢るから、みんな好きなだけ呑めばいい。
誰かが潰れて、誰かが介抱して、恋でも勝手に生まれればいい。
誰かが一芸でも披露すればいい。調子に乗って脱いで怒られたりすればいい。
エンターテイメントとは何かについて語って、喧嘩でもすればいい。
カウリスマキでもジャームッシュでもゴダールでもカラックスでもエイゼンシュテインでもなんでも引き合いに出せばいい。

そうやって朝。
光。
光。
光。

みんなで眠いね、って言って帰ればいい。


そうそう打ち上げの前に。


エンドクレジットの最後、おまけの映像でも入れておこう。
何にしよう。
そこがセンス問われるとこだよね、きっと。


March 31, 2006

春風が、スキ

向かい風と追い風なら、あたしは向かい風の方がスキだ。


向かい風の中歩くのはとても気持ちがいい。
手の込んだオールバックは恥ずかしいしみっともないけれど
自然派オールバックはとても便利。
髪が顔に纏わりつかないから視界がクリアだし
肌を擽って(これ、「くすぐって」って読むんだね)痒くなることもない。
とにかくスッキリして気持ちがいいのだ。


向い風の中、大股で風に体当たりしながらリズミカルに歩を進めると
自分が今、自らの意思と能力で着実に前進していることが風の抵抗によって実感できる。
吹き付けてくる風が強くて、少し呼吸が苦しくなるのもなんだかドラマチック。
中世のお話の騎士のつもりであたしは風に一人立ち向かう。
このスピードを崩さなければ、きっと世界を手懐けられる。
そう夢想し、意地になり、駆け抜ける。


向かい風が吹くと、あたしは途端に強くなれるのだ。


あたしは一人で
そして奇跡的に自由で
世界と闘って、そして勝つ。


向かい風はあたしを試し、あたしはそのゲームに乗る。
その先に待つ、あの無敵な感じ。
一人で強くあることは、とても気持ちのいいことだ。




一方追い風は、ひどく厄介。
そこそこの追い風はすいすい進めて気持ちいいのだけれど
強い追い風には不穏さを感じるのだ。
そのまま流されると、渦のようなものの中にに引き摺り込まれるような。
気を抜くと叩き落とされるような。
隙を狙われて、足元を掬われて
そのままぽっかりと空いた虚空の穴のようなものに、すとん、と容易に落とされるような。


胸騒ぎ。


ざわざわざわ
と心の中が音を立てる感じ。
実際追い風は不穏な音を現実に立てながらゆっくりとあたしたちを襲う。
(そう、向かい風はもっとビヨーンとかゴウキュルーとか楽しげな音を出す)
きっとスキーでジャンプしてる人たちはきっとわかってくれるはず。
追い風が、のしかかる、あの感じ。


追い風は変な感じ。
でも?だからこそ?
その胸騒ぎや、落ちていく感じ、ざわざわ、や、すとん、といったあの感じ。


あの感じは、とてもセクシーな感覚だったりもするのだ。


それはたとえばエレベーターが下降する瞬間や
荒波の日に縦揺れを起こす船がやはり小さく落ちる瞬間にも似ているけれど
いずれにしろ、あたしは「あの感じ」に弱く、カラダの奥の方が勝手に蠢く。
カラダの中から、すとん、と宇宙が抜け落ち空洞ができたのか
それともその空洞が宇宙によって埋められたのか
どっちにも感じられて、どっちかわからない感じ。


それは確かにとても官能的で、あたしはぞくぞくして、
そのぞくぞくが、気持ちいいことなのか悪い予感なのかどうか判断がつかなくなって
その感じにまたくらくらする。
実際は、追い風に吹かれているけなのだけれど。


追い風のセクシーさ。あたしはつい、目を閉じる。
落ちるという感覚は、本質的に快感に近いのかもしれない。






なーんていろいろ書いてみたけれど。




春風の前では全てが無効。
もう、向かい風も追い風も無い。


春風はとかく全方向から吹いてあたしを混乱させるのです。




髪はぐちゃぐちゃだし、目はしょぼしょぼだ。
肌も乾燥するし、顔を歪めるからどうしたって不細工になる。


そうしてあたしは混乱する。


何に立ち向かい、何に溺れればいいのか、もうわからない。
あたし何キャラだっけ?
強いんだっけ?セクシーなんだっけ?
自由なんだっけ?不自由なんだっけ?
1人?2人?それとも3人?
もう拠り所がどこだったのか、皆目検討もつかないのだ。


それはひどくはがゆく、苦しいこと。
どのストーリーもあたしをその気にさせてはくれない。
どっちもありで、どっちもなしで。
とりあえずお家に帰りたいのに、方向がもうわからない。




けれど。
春風の混乱は一流品なので。




その混乱はある風速を超えると
もう突拍子が無さ過ぎて、みんな笑うしかなくなってしまう。


女子高生のスカートは飽きるほど捲れ、
おじちゃんのカツラは飛ばされ、
自転車は蛇行し、
ゴミはカミサマからのプレゼントのように舞う。




全てはコントで、あたしたちは笑う。
世界は温く、人生はギャグで、あたしたちはこの混乱に身を委ね、笑う。




そして風は吹く。


笑いつかれたあたしたちの舞台に花びらが馬鹿みたいに舞うから
キレイとか通り越して、ほら、もう何も見えない。




春は、そんな季節。


全ては、春風のせいで。

March 19, 2006

夜の冷蔵庫が、スキ

冷蔵庫は孤独だ。




割と騒がしく、たくさんのものたちがひしめきあう台所の中
やたら大きい直方体は、ただじっとひんやりと冷えている。
大抵は隅に。でなくとも大概は壁際に押しやられている。


その四角さとその冷たさ。そしてその清潔さ。
そこにある孤独と、その孤独さと同質の静謐な光。


冷蔵庫がますますその孤独さとその魅力を発揮するのは夜だ。
できれば深夜がいい。
闇はなるべく深い方がよくて、季節はできれば真夏かそれかいっそのこと真冬がいい。
(それか変な夜。季節とは関係なく何かに火照る、それか凍える夜。)


しん、と、した夜の中、そう、多分そういう場合、台所の電気は消えていて、とても暗い。
音は全くしなかったり、案外窓の外からは喧騒が聞こえていたりするかもしれない。
けれど部屋の中から発せられる音は無い。
その中で冷蔵庫は低く唸る。ジジジジジとかブーンとかヴィーとかズーとか。
床は微かに振動する。それは気まぐれに止んだりもして、そのうちまた始まる。
その機械音は余計に孤独を際立たせる。
不思議なもので、音を立てている冷蔵庫がお喋りではなく寡黙なのだということは、予め定められていたことのように何等疑いの余地無く理解される。




ドアに手をかける。
ヴォワッサみたいな音が、マグネットを引き剥がしたときに聞こえる。




その四角の扉を開けると、そこは光の海。






煌々と放たれた光は
一瞬だけ、そうだな、多分ちょうどその眩しさに目が慣れるまでの間ぐらいの時間。
ちょっとだけ、希望みたいなのに見えなくもない。


そこには日常に即した食料品が無造作に並んでいて
何かを取り出そうと思うけれど、特に食べたいものもない。
けれど、閉めてしまうのがもったいなくてしばらくはそのままにしてみる。
食料品は美しい。食べかけでも賞味期限を少し過ぎていても。
そこには日常がある。
けれど同時に、ただ陳列されて鑑賞の対象となった日常は、非日常にもなる。




白い光は差し続ける。冷蔵庫は全てを冷やし続ける。暗闇の中で、ただひとつ。


そうしてあたしは、冷蔵庫は孤独だと思う。




気が済んで、ドアを閉める。
そのまま冷蔵庫にぴたりとカラダをつけてずるずる座り込むと
意外とモーターはあたたかいことを知る。
そのあたたかさを感じて、余計にあたしは泣きたくなる。
なにも考えないことはできないものか、と考える。


けれどたぶん、あたしは実際には泣かない。そしていっぺんにたくさんを考える。




そうしてあたしは、冷蔵庫は孤独だと思う。




大きな直方体と、光と、冷たさと、あたたかさと、唸りと、沈黙と、夜。
孤独な夜の冷蔵庫。
それはそれは美しく。
この夜を当たり前のように支配する。
その孤独は全てを呑みこみ、全てを受け入れる。






冷蔵庫は孤独で、この夜と、そして全てのちっぽけなひとたちを赦す。

March 6, 2006

ありえないことを待つのが、スキ


オペレーターが出るまで変な保留音を聞かされて3分待つのは嫌い。
ATMの列で10分待つのは嫌い。
歯医者で30分待つのは嫌い。
バスを1時間待つのは嫌い。
鳴る筈の電話の前で2時間待つのは嫌い。
帰ってくる筈の人の家の前で夜中6時間待つのは嫌い。


なのだけれど、どうしてか。

ありえないことを待つのは、結構スキなようです。

まさかなあ、ありえないよねーと思いつつ。
けれど無根拠な確信を持って、なにかをただただ気長に待ち続けるということ。
それはある意味では残酷でまさに途方が無い。
けれど、ひとつ言えることがあって。


こうしておけば。

少なくともあたしは
待っている間は死ねないのだ。


そうやって生きてきた。あたしはこの何年間か。
ひたすら待ちながら、ちゃんと見つけてもらえるようにいろいろ小細工もした。
「いつなの?」とは聞けないから、自分でその「いつ!」を決めた。
こうやって決めた「いつ!」は強い。
元々根拠の無い、あたしの冴えない勘に頼って設定された待ち合わせ日は
疑うべき根拠も無い分、自立していて、そして完成されている。絶対なのだ、つまり。

26歳になったら。
26歳になったら。
あたしはずっとそう思ってきた。
26歳は奇跡が起きる年。なんとなくそんな気がして、そのままそればかり信じてきた。
こんなにも普段ぐじゅぐじゅと理屈をこねくりまわしているあたしが
何故そんなことに確信を持てるのかは知らない。
ひょっとしたら、生きるための手段なのかもね。

それにね。
実際、強く願えば叶うのだ。
これ、ほんと。騙されたと思ってやってみてよ。

もちろんそれでもそりゃさ。
待ってたところで、
どっかの連ドラの最終回みたいに全てにハッピーハッピーな決着がつく訳じゃない。
だっておバカなあたしたちは。
慢性満足デキナイ病という難病を抱えていて
叶えられた奇跡、の、その先を期待する。
あわよくば、あわよくば、そればっか。


そうして
たくさんの後悔と混乱と虚脱感を抱えて
幾ばくかの浅ましさとふしだらさと計算高さに気づかないふりをして
夥しい量のアルコールと睡眠薬代わりにルルを体内に注ぎ込んで

「嗚呼、世界は、またひとつ、こうして崩壊した。」

と呟いたり、あるいは叫んだりして嘆く。

けど良く考えたら、もうほんとは十分祝福していい筈なんじゃない?
ありえないことが起きたこと、と、それまであたしが生き延びたこと、と。
すごくない?すごいよね。ダブルだよ。2倍喜んでいいんだよ?

そんなわけなので。
やっぱりあたしはありえないことを待ちながら生きていくのがスキなようです。
それは言い換えれば、漠然とした根拠の無い希望というものなのかもしれない。
具体的な希望はさ、ほら、
抱いたその7秒後には、きっとひどく具体的に、そしてあっけなく潰されてしまうから。


だからあたしは懲りずにまた待っている。
ぼんやりとした希望を抱きながら、またありえないことが起きる日を待っている。
遠いいつの日か、そうだな、今度はこんな春先の夜がいい。
その日まで、あたしはまたてくてくなんとか生きていく。


見失われることの無いように、いろんなところに痕跡を残しながら
崩壊させられるために、次の世界を少しずつ組み立てながら

ただただ気長に待つのです。
たまには待っていることすら忘れて、まどろみながら。


February 10, 2006

カラダが、スキ


自分のカラダがスキかと言われれば
ある観点から見たそれはもう本当にどうしようもないくらい嫌いです。
肉のつき方も皮膚の薄さも骨の歪みも酒を呑むと右目がむくむのも足が変な形で合う靴が少ないのも
基本的にはもうどこもかしこもほんとうに気に入らない。
見た目だけじゃなく機能的にだって。大病は無いが地味にまずい。
まずしょっちゅう風邪をひく。
一年のうち多分300日は風邪をひいていて、それはもうそこらでは有名な話。
それに体力だってない。筋肉もあんまりつかないし、ぷよぷよしてる。末端冷え性。眩暈、耳鳴り、吐き気多々あり。4年前ぐらいから偏頭痛もときどき患うようになった。とにかく三半規管が弱く、花粉症もひどい。気管支と肺が弱いのは、1,000円で占ってもらった手相の占い師にだって読まれた。

そんなわけで。誇れるところなんてほとんど無いとなんの謙遜でもなく思うのですが。

それでもやっぱりこのカラダはスキです。
表面的な美しさはさておき、不健康さもさておき。
もっと本質的なところを、あたしは最上級の方法で愛でてあげたいと思うのです。


深い深いところまで届くように。あたしのカラダだけに許されるスペシャルな方法で。


あたしのカラダは、あたし本体よりもいつだってずっと賢く生きている。

彼女はいつもあたしよりよっぽど世界ときちんと向き合っていて
正しいことと正しくないことを丁寧に見極め、そして躊躇無く大声で喚く。
躊躇無く。それはそれは爽快なほどに。


現実にはそれは
酷い恋愛に拘泥しているときには膀胱炎を発症し
酷い状況に甘んじているときには胃の中の侵入物をひたすら逆流させ
とにかくもう休むべきときには20時間も覚めない眠りに引き摺りこむ

といった割とファンキーでワイルドな展開に結実する。
それが、彼女の叫び方。

こうなったら。
頭がなんと言おうと、あたしは、あたしのカラダの言うことをきちんと聞こうと思います。
そっち側が正しい筈だと。
カラダは全部わかっているのだと。
いつだってちゃんと信号を送ってくれる彼女をあたしは信じる。
そしてその信号を
あたしはいつまでだってちゃんと見逃さないようにしていたいと強く思うのです。


「考えすぎだよ」と人に言われるのを常としているあたしだけれど
そういうわけで、結局困ったときはもうただ全てをカラダに委ねることにしています。
体調が悪ければ、食べたいと感じるものだけを食べ
気持ち悪ければ、吐き
泣きたければ、泣き、笑いたければ、笑う。
発疹がデート前に突然出たなら、そのヒトとはもう一緒にいるのはやめようと思うし
耳鳴りが幻聴に変われば、全てを放棄する。


「石橋を渡る前にそれを叩く道具から叩く回数までさんざんうだうだと考えたあげく、
結局突然その思考全てを覆し、無茶なステップで渡りきる」
という不可解な行動を取るように見えるのは
だからきっと、このせいです。
最後にはカラダの言いなりになっちゃうからです。


これがねえ、結構楽しいんだよ。
たぶん、とてもシンプルなことだから。

そうそう。

それにカラダはいいことだって教えてくれる。
黄色や赤の信号だけじゃなくて、とびきり綺麗な青い信号もキラキラさせる。

だからたとえば、このドキドキしてるのはきっと。


January 19, 2006

踊るように書き、歌うように喋るのが、スキ


あたしは文章書きとしては決して器用な方では無い。

そんなことはいつも「書く」前からわかっているし、「書く」途中でもわかっているし、「書く」のが終わったあともわかっている。というか、そもそも文章以外のなんでもなんだって、大事に思っていることに関しては器用な方ではまったく無い。カッターでまっすぐに線を引けないように、真っ当な恋愛を丁寧にこなすことができないように、地図でいう「上」が道路上では「直進」である、ということがわからないように。器用なことは、そうだな、ほんとうにどうでもいいと思ってることだけ。たとえば仕事。ビジネスメールの処理と、専務のスケジュール管理と、ガイジンさんのアテンド。そういうことは、とても器用にできる。きっとどうでもいいと思ってるからね。でも大事に思うことは何一つ思うようにできないし、大事に思うものはあわあわしてるうちに全部失くす。だから一度、いろんなことを「どうでもいい」と仮定して、どうでもいいことやものとして処理することにした。そうすれば器用にできると思ったから。でもあたしは忘れていた。あたしは、『「どうでもいい」と自分自身に思い込ませる器用さ』を持ち合わせていなかったんだった。ありゃりゃりゃりゃ。なんて単純でなんて哀しいこと!

話は戻るが、そういうわけであたしの文章はいつも足りない。見えてる映像の、聞こえてる音楽の、そういうカタチを取らない七色のゼリー状の全ての原型みたいなものの、ほんの一部ですら、あたしは全然正確に説明できない。(それにはひょっとしたら「コトバ」の持つ本来的なセイシツみたいなのが少しは関わっているのかもしれないけれど、なんとなく違う気がしてる。それは「コトバ」の落ち度ではなく、大部分はこの脳みその落ち度だ。)

ちなみに喋ってるときの状況はまた少し違う。

あたしは喋り手としては器用とか不器用とかという範疇を超えている。(ところであたしは「葉」という漢字が好きなので、「喋」という漢字も好きだ)だってあたしは少しでも調子が悪いとぴたりと喋らなくなってしまうから。あたしは黙ることと、その場からふいっ、といなくなってしまうことが得意だ。(あ、それは器用にできるかもしれない)それか逆にどうでもいいことをひたすら喋り倒すということもある。嘘はぺらぺらぺらとこの口を簡単に滑らせる。うそもほんとうも下ネタもダジャレも大きく口を開けて笑って腹を抱えて喋ってれば、みんな安心して納得して仲間に入れてくれる。仲間に入れてもらうのは実は嫌いなわけじゃない。淋しがりやだからね。


そんなあたしなので、実際、いい文章書きやいい喋り手になるのは相当難しいと思っている。だからあたしはそんなもの無謀にも目指すことはをすっぱりさっぱりきっぱりやめたいといつも思っていて、たとえばあたしが、世界や、大事なキミや、遠いアナタに語りかける最も有効な手段について、かつてはいろいろと思考し試行したものだった。

けれどもびっくりすることに、あたしは本物の不器用ちゃんだったのだ。

絵はクロッキーも水彩も油彩もパステルもアクリルも何もかもダメだったし、歌はすぐにピッチを外す。ダンスは振りつけが絶望的に覚えられないし、ノコギリは手を切り落としそうで使えない。立体的にものを見るのが苦手だし、手があまりに小さくて、楽器は何やってもうまくいかないし、機械音痴だし、運動神経は怖ろしく悪いし、体力は養命酒の購入を既に考え始めているほど、無い。


悪い文章書きのあたしは、ここでいきなり結論に飛ぶ。

あたしは、踊るように書き、歌うように喋るのがスキだ。


なにもできないことがよおくわかったあたしは、結局それでも文章を書くことや喋ることを大事にすることになってしまい、それなりの気持ちでそれらを続けてきてしまっている。けれど「名文だ!」「名セリフだ!」なんてことや、「流麗な文章からは細やかな情景が浮かび上がってくるよう!」「嗚呼!サガンの生まれ変わりのYO!」「ワオ!頭のいい喋り方とはこういうことネ!」なんてことは言われなくてもしょうがないなあ、と思っている。だって何しろあたしはコトバの中身を正確に誰かに対して、説明することが器用にできないから。「ひとりよがりの文章は最低です!」、とブンショーキョーシツでもハナシカタキョーシツでもきっと言われるのだろうけど、その場合あたしは最低だ。まじで。けど最低なら最低なりにやってくしかないと思う。そこから最高を目指すのはタイヘンで、あたしはただでさえいろんな意味でタイヘンなことに巻き込まれやすい人生だし、そもそもタイヘンな性格なので、正直もうタイヘンなことはあんまり増やしたくないのだ。今のところ。(それでもいつかタイヘンでもいいからちゃんとしたい!と思って頑張るときが来るかもしれないけど。)


んじゃ、どうしよう。どどどどどーしよー。いかに書き、いかに喋るか。


あたしはうんうん考えて、うーん、わからん、と思った。でもやっぱりコトバはスキだなあ、とも思った。
そのうち。
考えてるうちに、あたしは楽しくなってきた。
それで結局、あたしは自分が一番楽しくなることを追求することにした。
あたしは他人にも自分にも甘いのだ。


あたしが一番楽しいとき。それは、よく、このカラダが知っている。
多幸感というコトバが大袈裟でなくなるとき。
それはいつも、あたしが踊るように書き、歌うように喋っているときだ。
実はこれはこれで、いつも器用にできるわけではない。自分のコンディションがよかったり、海が奇妙な色だったり、スキな人からいい匂いがしたり、そういう特定された状況じゃないとしようと思ってもできない。


でも、できたときのあたしは無敵だ。ほんとうに。
あたしはほんとうに世界を台無しにすることができるし、分裂したり胞子を飛ばしたりしながら、空を飛ぶことも出来る。その間だけ、あたしは欲しかった宇宙を丸ごと手に入れる。


昔、「右手首のダンス」という遊びを思いついて、右手首だけで踊って、その踊った軌跡をその右手に握ったペンでノートにひたすら記していたりもして、それはそれですっごくエキサイティングな遊びだったのだけれど、「踊るように書く」ことはそれとはまたちょっと違う。「歌うように踊る」のも決してアイルランド人のように喋ってる音程がたりらりら~たりらりら~と絶えず波打つというわけではないし、ミュージカルとかオペラは、例えにすら挙げられない。

「踊るように書く」というのは
書いているときのあたしの状態が踊っているときの状態とイコールであって
その結果、文字も文脈も行間もコトバも何もかもが。
ダンスである、ということだ。
「歌うように踊る」というのは
喋っているときのあたしの状態が歌っているときの状態とイコールであって
その結果、文字も文脈も行間もコトバも何もかもが。
うたである、ということだ。

え、え、え、え。じゃあ、何?どんなの?「踊るように書き、歌うように喋る」って結局どういうこと?ていうか、なんで「踊るように書き、歌うように喋る」なの?なんで?なんでなんでー?

ね。ほら。悪い文章書きのあたしは、大事なことは何一つきちんと説明できやしない。

バッラービレ。踊るように。
カンタービレ。歌うように。


ただわかることは。
あたしは踊るように書き、歌うように喋るのがスキで。
それが毎日のようにできていた奇跡の日々を今でも鮮やかに思い出し。
少しでもその魔法を取り戻してあの多幸感を味わえるように。


今日もまた。
いくつものステップを想い、いくつものメロディーを想っているということ。


もうすぐ、もうすぐ。きっと震えるほど楽しいよ、また。

January 10, 2006

ホテルが、スキ


ホテルというものはなんて便利なものなのだろう、と思う。


たとえばなんの用意もしていなかったとしても。
少なくともそこにはあたたかなお湯があって、それなりに大きなベッドがある。
テレビもあって暖房もある。
シーツは白く、バスタオルは清潔そうに畳まれて、
バスローブや浴衣が他の物よりちょっとだけウカレた感じで置かれている。

世界の果てにいると信じて疑わない、駆け落ちした恋人たちにも
お金で買った思い出を、買えないものに見せかけようと必死な家族にも
言い訳だらけのみっともない久しぶりの2人にも
探し物が見つからず座り込む1人にも


全てのヒトに平等に。
ホテルの部屋は、ただそこにきちんと、ある。
きちんと。

それはとてもとても幸福なことです。


もちろん「ホテル」にはちょっと違う感じのところもある。
けれどあたしはそういうのは厳密にはホテルとは呼ばない。
それらはユースホステルだとか宿だとかジャングルだとか
もっと別の名前が与えられる場所のはずで
あたしがホテルと呼ぶのは

最低限の清潔な、そしてきちんと孤独な部屋を用意しているところだけです。


ホテルの部屋に入った瞬間
あたしはいつも
そこがもうあたしやあたしたちのためだけの1つの宇宙のような気がしてしまう。
とてもとても孤独でいとおしい宇宙。
前にも後にもその部屋では入れ替わり立ち替わり人々が過ごしているはずなのに
その感覚は揺るがない。
それはとても奇妙なことです。

でもきっとそれは
ホテルの部屋というところが

日常からは、決定的に遠いところだからだと思います。


自分の部屋のようにも馴染めず、他人の部屋のようにも浮きもせず。
ホテルの部屋はそういう比較とは違うレヴェルで。
静かに小さな宇宙を内包する。
日常から遠いその小さな小さな宇宙では
実に様々なルールが失われる。
それはその宇宙で
日常やら現実やらを背負い込むこの疲弊した世界を
甘く丸め込む魔法が通用するからです。

全てをシンプルに祝福する魔法。
あたしは
その勘違いの宇宙で通用する魔法を愛す。


あっち側。

全てのルールを超えて、純粋に欲望する、あっち側の宇宙の象徴としての魔法。


たとえば好きな人の家の、好きな人の匂いのする、好きな人のベッドで眠ることは
もちろんとても心地よく、泣けるほどに安らかなことです。
なぜならその延長線上にははっきりと日常があるから。
そして日常はいつだって。
素晴らしい頑強さとしぶとい健やかさを携えて
最終的には何にも負けずに流れていくのです。


けれど
一緒に生きていきたい人と一緒に死にたい人とが時として違うように。

たとえば日常というこっち側にあたしがしっくり馴染めないのだとしたら。

あたしは甘やかな魔法に。小さい宇宙に。
あっち側に、しばらくは属していようと思う。
少し遠いホテルで、このやたら寒い季節が終わるまで、しばらく暮らすように。


それにあたしは知っている。
とても簡単なきっかけで、あっち側はこっち側にもなる。
それはホテルの部屋の壁越しに、キスをするのとおなじぐらい簡単なこと。
こっち側とあっち側が楽しげに入れ違うとき。

邪魔なルールは全て溶け、魔法は全ての部屋で起こる。

そうやって。世界は台無しになるのです。とてもとてもいい意味で。


October 31, 2005

季節の恋が、スキ

ようやく。ようやくまたやってきた。

そうして少しずつ少しずつ
私はまた寒い季節の中で生きる方法を思い出すのです。

夏の恋と冬の恋は違う。


夏の恋より冬の恋のほうがずっとずっと切実で。
或いはそれには最早「好き」という表現は適さないのかもしれません。

それはどちらかといえば

「好き」ではなく「必要」という概念に近いような


その場合、好きと必要のどちらが上位かと言うと、それはまた難しい問題なのだけれど。
多分それは上位とか下位ということではなく、ただただ異質なのだと思います。

夏の恋(即ち「好き」)と冬の恋(即ち「必要」)。


夏の恋は依存しない。


茹だる暑さの中であたしたちは毛穴を開くように自らも開く。
あたしたちは個体として自足した状態で出会い
独立した固体同士がすえた臭いの中で
体液と汗となんかいろいろをその境目にどろどろと恥ずかしいほどに垂れ流し
なるべくぐちゃぐちゃになりながら


でも、暑いから。
だってこの暑さなら本当は1人で物憂げにしているくらいが丁度いいから。

だからあたしたちはあくまで二つの別の個体であり続ける。
そしてだからこそ艶やかなもう1つの個体に欲情し
セクシーな駆け引きを悦びとして楽しむのです。


これが、「好き」ということ。
健やかな人生と完全な個体を得た上での、人生の最たる悦びとしての恋。


夏の恋はそれはそれは野性的で動物的で短絡的でえらく野蛮なようですが。

あたしには
それは人間として、実に成熟した行為のように見えます。
身体機能や精神構造が依存しない、純粋な快楽としての恋。
そんな恋を楽しむということは
それはむしろ大人な、文化的な、インテレクチャルな行為なのではないかと。
(たとえば本当に殺気立った生殖行動の一環としてのものならそれはそれでまた話は別なのだけれど。あくまでそうでなくて、海と太陽とキャミソールとと強めの香水と汗疹と日焼けと蚊と西瓜に彩られたハッピーでサッドなシンプルでセダクティブなそんな恋のことね。)

一方冬の恋は、いつも本質的に苦しい。

まず考えて欲しいのはなんてったって寒いということだ。

1個づつの個体としてのあたしたちはとにかくあまりの寒さに震えあがる。
それは着込んでも着込んでもホッカイロを貼っても貼っても
いつまでも解消されない五臓六腑の奥の方の問題。
底冷えの底がどこなのか
そんなひどく抽象的なことをやたらリアルに感じ取れるような
余計なほどに研ぎ澄まされた寒さ。

それであたしたちは抱き合う。だって寒いのだもの。死ぬほど寒いのだもの。

そうしてあたしたちは、補う。
この1個の個体では解消されない問題を、物理的に解決する。
依存しあうことによって。あたしたちはお互いの熱を頼りに生き延びる。

けれど身体の依存はそのまま精神の依存を導き
キミはいつのまにかあたしの一部になり、あたしは当然のようにキミの一部になる。
固体を固体で補っていると、固体の一部は急速な熱によって液体になってしまい
あたしたちは本質的にとろとろになる。
とろとろとあたしたちはお互いの境界を越えてとろりと浸入する。


ほらもうこんな風になっちゃうとさ。
ほんといろいろめんどくさいよ。


一線を引くからそれはクールでホットでファンキーでエレガントで
別々の個体だからあたしたちはキュートなチラリズムで押して引いて引いて押すのに。


だってもうこれは「好き」ではなく「必要」だから。
もうあたしの一部はキミでキミの一部はあたしだから。
全てが切実で、いろいろ苦しい。
何より独りで生きていけないのは惨めだし、幼稚だ。
それにどうしたって哀しいし、垢抜けないし、やたら足掻くから醜いし、何もかもぎこちないし、


そして全てを台無しにしてしまうほどに見事にあたたかい。


そのあたたかさに
あたしたちは少しだけ泣くでしょう。
苦しくて辛くて悲しくて嬉しくて気持ちよくてとかじゃなくて。

ただそのあたたかさに泣くのです。

そう。

そういう季節がすぐそこまでやってくる。
あたしは楽しみにも思うし、ちょっと身構えもする。


季節に流されて、それか季節に抗って
いずれにしろ。


季節のせいにして恋をするなんて。

なかなか悪くないと思うのです。


September 16, 2005

たとえばなしが、スキ

完全にして超マッチョな硬派無宗教唯物論的思考が蔓延する我が家に生まれながら
何故か中高6年間というシシュンキの全てを
期せずしてプロテスタントの学校で過ごしてしまったのですが
(都内の中高一貫の女子校は、得てしてお嬢様学校感を演出するためだけに嘘でも何でもキリスト教色を強めがちです。キリスト教って、なんかヨーロッパで、なんかステンドグラスで、なんかマリアさまで、なんか歌もうまくハモってて、なんかこう、オシャレじゃない?ってきっと一般的教育ママ推定35歳前後VERY読者が思うからなのではないのかしら。あたしは知り合いのオネーチャンが行ってて、滑り止めに受けたら他全滅したってだけの理由で行ったんだけど。)


キリストの唯一にして最も尊敬できるところは
たとえばなしが得意だ、というとこです。
善と悪を、罪と罰を、兄と弟を、男と女を、都合のいいことと悪いことを
動物や植物や食べ物や人やものやその他いろいろなものに。
瞬時にたとえて説明する能力。
それは褒めてやってもいいかな、と思います。


たとえばなしが、スキです。ずっと昔から。

あたしはすぐ混乱するうえに
ヒト話の核ではなく周縁の方にやたらめったら気が散ってしまい
それについてぼんやり考えているうちにヒトの話がずんずか進んでしまい
気がつくと「聞いてないでしょ」と呆れ顔で顔を覗き込まれることが多いので
たとえばなしはとてもありがたいと思います。

ある事象を簡略化し、わかりやすくするためのおはなし。
複雑な世界の法則や抽象的で高尚なイメージを
ときに低俗な物言いでやっつける。
その本質をぐっと取り出し、違うもので説明しようとする試みは
それだけで楽しくウキウキします。
それにたとえばなしはそれをするヒトの趣味やセンスや生き様が零れてしまう。
だからあたしは嬉々としてたとえばなしに耳を傾けるのでしょう。

でも本当にスキなのは実はその向こう側のことだったりもします。

たとえばなしでたとえられるために持ち出されるコトやモノというものがあって。
タナトスをパンツにたとえるのなら、パンツ。
エキピロティック宇宙論を千枚漬けにたとえるのなら、千枚漬け。
スタニスラフスキーシステムを林くんの淡い失恋にたとえるのなら、林くんの淡い失恋。

そっち側の、コトやモノたちの行方。

たとえばなしがありがたく
その語り手の人生を覗くのが面白いことももちろんなのですが
それがちゃんと心に響いたとして、そのあとのあたしの日常のおはなし。


あたしは今度はそのたとえばなしによって
新たなものがたりを獲得するのです。正確に言うとあたしではなく、そのコトやモノたちが。
次の日からあたしは
パンツを見てタナトスを想い
千枚漬けを見てエキピロティック宇宙論を想い
林くんの淡い失恋を見てスタニスラフスキーシステムを想う。
そんなことを想うのは、きっとその場にいるヒトたちの中であたしたった一人だけで
それはうっとりとするほどセクシーな行為なのです。

そしてそのうち。しばらくこの悦びに浸っていると。
もっと危険な新しい遊びが始まります。


今目の前にある冷えたツナサンドはいったいどんなたとえばなしに使えるのだろう?
正しく置かれた伝票は?
さっきから通路に落ちたままのおしぼりは?
満足そうにソーサーに横たわる丸みの強い燻し銀のスプーンは?
ここで腿に乗せたPCにひたすら文字を打ちこむこのあたしの行為は?
もう6回も目が合った隣の男の子の履いているビンテージのプーマスニーカーは?
奥の席で熱心にエステの勧誘のコツについて語る男のやたらと目障りな左手の動きは?
それを聞いて頷き続ける栗色の髪の女の子が睨むように大きな瞳で店員を追うのは?


これは なんの たとえばなしに 使えるのだろう?
これは どんな 世界の秘密を わかりやすく 説明するのだろう?


そんなことを考えるようになるわけです。なんてことない風景をぼんやりと見遣りながら。
通常は脳内処理を行う前に振り落とされてしまうような些細なモノやコトに
拘泥して、留まり、遊ぶ。
それはなんて贅沢で、危険で、正しく病んだ、素敵な行為なのだろう。


全ての事象はなにかに酷似しているようで、それはやはり全く別のことだ。

けれど
ちいさなコトやモノに世界を見出すこと
すべてのコトやモノにものがたりを見出すこと

それは実は
予め定められたこの世界とここにある運命とを
根底から覆す方法なのかもしれない。

ミースの言うように、神は細部に宿るとして
(多分キリストとか八百万とか仏とかじゃないやつね)
そんなナンカの神に確かに手を触れてしまうような。
それで「踊ろうよ」ってナンパして「踊ろうか」ってスパークリングワインを呷って
そのリズムで世界を内側から台無しにして代わりに音楽で満たすような。
そんな健やかで蠢惑的なテロリズム。


日常を生きるときの些細なコトやモノはすべて

ドラマチックにその痕をこれ見よがしに残す大きな出来事と
重低音を轟かせやってくる運命と
なんだか勝手に周る世界と

実はきちんと繋がっていて、等しく素晴らしい。


大きなコトやモノと小さなコトやモノ。

等しく劇的であるということは、なんて感慨深いことなのだろう。

ほら。なんだか嬉しくて泣きたくなってしまうでしょう?
世界はどこかにあるのではなくてここにあって、神はここで腰を振って踊ってる。
想像することはいつだって自由だ。そうしてそれはやがて官能へと転化していく。

それは多分素晴らしくキモチイイはず。
世界はそうやって変わるし、そして変わらない。
どちらだとしても。

さあ。ところでこれは。

いったい なんの たとえばなしだったでしょう?


August 29, 2005

曖昧な関係が、スキ

あたしには

彼氏と恋人と愛人とダーリンとセフレと大事な人と運命の人と命の恩人とパートナーと友達と仲間と同志と師匠と双子とお兄さんと弟とパパと息子とペット

がいる。

これは、各肩書きに1人ずつ、と思ってもらってもいいし
各肩書きに3人とか17人とか複数人いると思ってもらってもいい。
全部の肩書きを持つたった1人のスーパーマンがいる、と思ってもらってもいいし
そもそも真っ赤な嘘だと思ってもらってもいい。


正直なところ、あたしにもどれがほんとうなのかは、よくわからないのです。


人を、特に男の子を人に紹介したり、説明したりするとき。
あたしはいつだって本当に途方に暮れてしまう。

「彼氏です」は、「つきあおうよ」って言っていないと公然とは使えないらしいし
(なんかそうみたいだよ)
「双子です」は、血縁的にそうなんだと思われて無駄に場が盛り上がってしまうし
「友達です」は、なんかこう物足りないし
「師匠です」は、どういう意味で師匠なのかについて30分くらい説明しなくちゃいけないし
「愛人です」は、そもそも白昼堂々宣言することに違和感を覚えるし

なにより、そんな一言で。
それもそこらじゅうにうんざりするほど落ちている一般名詞で。


あたしと、あたしの人生にわざわざ踏み込んできてくれた人との関係を
そんなそんなそんな当たり前の一言なんかで易々と括ってしまいたくないのです。

あたしと、キミとは、1対1で向き合って、関係性を築きあげて、


そう。


それは、粘土細工のよう。
2人の真ん中に置かれた粘土の塊で
ぺたぺたと2人きり、一緒にナンカの形をつくりあげたのに。
その形を見て勝手に
「蝶だ」とか「リボンだ」とか「春だ」とか言いたくないんです。


たとえ途方に暮れるあたしを心配した優しいキミが
名前をつけてしまうことに同意して、

「そうだね、じゃあこれは蝶だね」

って親切に保証してくれたとしても。
あたしはなんだか
スコーンと内臓が深海の暗闇へと引っ張られて落ちていってしまうような。
絶望的な哀しみに襲われるのです。


もちろんあたしだってもうなんだかんだで四半世紀生きて
うまくやってくためにはそんなことも言ってられないってこともよくわかっています。

こんなこと言ってると
遊ばれるだけの都合のいい女になるとか
(この「遊ばれる」の定義もイマイチよくわからないけど。)
紹介するたびに長々と2人の歴史を喋っていると紹介される側は辟易するとか
(酷い場合は、本題に入る前にいなくなる。)
相手を深く傷つけてしまったりするとか
(名前をもらうと安心だから。名前をもらえないと不安だから。それは最近ようやく実感を伴って少しわかった。)

それぐらいは学習しました。

だからあたしもスマートに。
「友達の○○くんです」とか、「彼氏の××です」とか。
近年は腹を括って言うことにしています。
でもやっぱり言った後はすごい気持ち悪くてむずむずするし、いちいちストレスが溜まる。

諦めの悪いあたしはそのむずむずに耐えられなくて

「友達っていうかなんていうか…」とか
「一応彼氏ってことになってます」とか
「精神的セフレといった存在ですかね」とか
「言うなれば文学的な意味での恋人という概念に一番近いかと思われます」とか
「双子かと思うくらい手相が似ている仕事仲間なんですけど気持ち的には師匠のように敬っています」とか

やっぱり余計なことをくっつけてしまって
なんだかその分余計にぐったりするのでした。


でもこうやって、ああでもないこうでもないって
そんな風に悩むほどに、曖昧な名前のつけられない関係の方が
ずっとステキで、ずっとずっとイイと思うのです。
そんな曖昧な関係の方が、きちんと1人1人が大事にされてるはずだと。


だからあたしのことも、
「彼女」とか「友達」とか「妹」とか、躊躇わずに言わないで欲しい。
同じくらい傷ついて同じくらいもがいて同じくらいあたしについて考えて欲しい。

ありふれた関係も、ありふれた名前も嫌いなのです。

それにそうしておけば。


世間の常識とは関係なく、自分ルールの関係性がつくれるのです。


「友達にはキスしない」とか
「一番尊敬できる人を彼氏にしなさい」とか
「仲間に手出すなよ!」とか


よくあるじゃん?そういうの。


そういうの全部。鮮やかにすり抜けたい。


すり抜けてキミと2人でお腹を抱えて笑っちゃいたいんです。

「なんなんだろ、あたしたち」
「なんなんだろーねえ」
って

笑って揺すった肩をぶつけながら手を繋いで。
追っ手も全部振り切って、笑いながら逃げ切りたいんです。


こんなことも、そう。
曖昧な関係のステキな人たちに、あたしはかつて、教えてもらったのでした。

ありがとう。

August 12, 2005

痕残しゲームが、スキ

結局のところ
ずっと同じ場所に同じ人といるなんてことはもう全然信じられないわけで
遅かれ早かれまた飛び立つのだと思うのです。
いつだってそう思うのです。
あたしかキミかあなたかモリモトさんかムックンかキョウコかハヤシダくんか誰か。
まあ誰でもいいんだけど。誰でも。
どっちが先かの競争のように
あたしたちは、どちらからともなく、きっと、

いなくなってしまう。

確かにそれはずっと先のことかもしれないし、明日起こることかもしれない。
もう起こってたりして。
けれどそれはあたしとキミだけの問題じゃ実はなくて、
つまりはヒトだけでなくて、

サヴァイブするということは、つまり失い続けていくことなのです。


「しかしですね。失うぶんだけ得るものがありますよ。」
「ほら、得たもの。そっちについて考えましょう。」


だよねー。ですよねー。


でもね。
失った代わりに得るものは、たとえ失ったものと等価だとしても
決して失ったものそのものではない。


それはごまかしちゃいけないと思うのです。


とはいえこんなことばかり鬱々と考えていても体力も抵抗力も免疫力も落ちて
しまいには肺炎なんかになっちゃうので。
最近これをゲームにしてしまうことを思いつきました。


名づけて


「痕残しゲーム」。

どうせ失うのなら。
いっぱい痕を残してやろうと。なんにでも。
つまりはどうやってうまく痕を残せるかの研究です。

あたしが「それ」を喪失したあとに
それでも「それ」があたしのことを思い出さずにはいられないような。

そういう、痕、を、「それ」に、つける。
最後の意地のような、悪戯のような、プレゼントのような、そんなもの。


縄師のような技術と賭博師のような大胆さとナノなんとか研究家の精密さとマリーの浪漫を
持てれば最高なのだけれどそうもいかないから不器用ながらいろいろと画策して
日々突き進むこの痕残しゲーム。
これは相手がヒトだとそれはそれで難しいし
ヒトで無い場合にはヒトで無いなりの独特の難しさがあります。
けど痕の残し方に拘ることは楽しくて美しくて醜くて。
そしてどうやら、あたしは自分がこれが割と得意な気がしてきています。


たとえば
吸殻が世界中の何百銘柄の中で最も美しいカールトン1mgを吸い続けていることも
最後の瞬間に手を伸ばせば届きそうなように長くこの髪を伸ばしてきたことも
忘れ物が多いことも、掃除が適当なことも、噛み癖があることも、
自分の数々の特性がようやく生かされるような気がして割りと
ウキウキなわけです。

特技は?

「お華と、お茶と、痕を残すことです。」
「昔はカヌー部だったんですが、最近は漕いでなくて。今は、痕を残すことです。」
「バイオリンを20年、サックスを6年続けています。あと最近、痕を残すことを始めました。」


ちょっと言ってみようかな。とか。思ってると。ほら。
楽しくなってきませんか。

ほら、実力を試したくなる。

喪失が、待ち遠しくなる。


でも面白いところは
ほんとうに痕に残るのはきっと全然違うとこなんだってこと。


それにもっと面白いところは
痕を残される準備はしていないはずなのに

きっとそっちの方がずっと多いって、こと。


そして今度は裏切られることが楽しみに変わる。

このように。

喪失の準備は、手が込んでいればいるほど、そのあとの楽しみがきっと増すのです。
(哀しみが減るのではないよ。楽しみが増えるのです。哀しみは、そんなに簡単に減らしてはいけないのです。)


ほら。ちょっと一緒に。やってみましょうよ。なんだか腹立たしくなったのなら、特に。

July 30, 2005

キミより早く眠り、キミに起こされるのが、スキ

これはあたしの持論なのですが。

相手の寝顔をより多く見ている方が。

その関係性において、より弱い位置にいるような気がするのです。

先に眠ってしまう方
なかなか起きてこない方

いつだってそっちの方が。

ずっと淋しくないような気がするのです。

「スキな人の寝顔ほどカワイイもの、ないよネ!」


って人はよく言ったりするわけなのだけれど
あたしはそうは思わない。

そりゃあカワイイけどさ。
でも、そんなの一瞬だ。


眠っているキミはもうあたしとは違う世界にいて。
その世界に、まだエスパーではないあたしは介入できない。


それが無意識だったとしても
たとえば握った手を煩わしそうに振り払われるのが怖くて
あたしは大抵悪戯することもできずに
早くその寝息が聞こえないところに行けるよう
ギュッと瞼を閉じて、精一杯努力するのです。


だからあたしは「おやすみ」の後はなるべくさっさと眠りたい。
眠れなかったら「ねえ起きてるー?」を連発して
きっとキミをもう一度起こしてから、こっそり眠るのです。

朝は朝で、何度も起こされるのがいい。
2度寝3度寝が何よりもスキで


「や、あとちょっとで夢終わるから…」
「や、なんか、体調的にあと3分寝た方がいい可能性があるなぁ…」
「惜しい。今の起こし方惜しいよ。あたしもう一回寝てるからもいっかいやっていいよ。」
「あと1分、あと1分…」
「え、もう?じゃあ、ドン!さらに倍!」
「にゃあ!」



数々の妄言を吐いて親友の布団ちゃんとの別離を阻止しようとするあたしのことを
懲りず怒らず呆れずに
辛抱強く、何度も笑いながら起こして欲しいのです。
だって。寝起きのあたし、割と面白いし。
ただの寝起きが悪い人よりはマシでしょう?


それに


先に起きてさっさとシャワーを浴びていると
なんだかとたんに世界が怖ろしく客観的に見えてきて
布団にまだくるまっているキミが 
なんでそもそもここにいるのかすら

わからなくなってしまうときがあるから


そしてそれは
サクロンを無理矢理飲んだときに味わうあのカラダの内側からスーッとなる感じに似た

ヒンヤリとした質の悪い淋しさに直結してしまうから


だから。起きるのは後がいい。
暴力的に喚く電子音じゃなくて。
ちゃんと人の手で起こされたい。(何度も)

先に眠り、後に起きる。
我侭で怖がりなあたしなりの日々の遣り過し方です。


July 11, 2005

誕生日が、スキ


山羊座は今年は運勢が悪いのだけれど
四柱推命では1月4日はまあ普通で
誕生花はヒアシンスだったりスイセンだったりクロッカスだったりでそれは本によって違う。
誕生石はクリスタルで
誕生色は茶色なのだけれど
これはニュートンとグリム兄と子門真人と一緒で
その他世界の人口割る365日の人たちと一緒だ。


淡々と連なる数字は
30や31や12なんかを目処にしてすぐまた1に帰って同じように続くのだけれど
その中のたった1日はあたしのものになる。
特別な日。
それは錯覚ですが、悪くありません。
同じことはヒトにも言えて
その中のたった1日はキミのものになる。
特別な日。
それも錯覚ですが、割とスキです。で、今日はこっちです。


無くてもいいしどうでもいい。
例えば日々、例えばこの瞬間を
またしてもキミがサヴァイブ!したことを。
確認して祝福して飽きもせず涙して
「カンパイ!」を輪唱して祝杯をあげ続けることができるなら。


そうだね。きっと、その方がいいです。

だけどあたしたちは忘れっぽくて
目の前に既にあるものは全部デフォルトになってしまう。
更新されてるのにも気づかずに
今、目の前にあるものは、今、デフォルテ。
場合によってはそれより酷い場合もあったりして。

じゃあ目の前にないものは?どうでしょう。
ここにいないキミとあたしは?
どうでしょう。

何より忙しくて新しもの好きなあたしたちは忘れることで生き延びるのです。

そしてそれはそれで。
一つのロマンの形。
ぼくらの記憶はどこに消えるのか?
21世紀記憶の旅。


話を戻すとだからあたしは今からパーティーをするんだけど

それはキミにおめでとうを言いたいからだけじゃないのです。


後ろめたさを少しだけ引き摺って
払拭するようにごめんねとありがとうを同時に言う

そう。

だからあたしはこっち側で。
届かなくても一人きりでも今日がホントはキミの誕生日じゃなかったとしても。

今夜は年一回のキミの誕生日を祝います。

祝うことで。

あたしは自分を少しだけ赦すのです。

今年はブッシュミルズ。
ウィスキーは腐らずに時間を思いどおり超える。


パーリー、パーリー。


June 25, 2005

自転車が、スキ


機械は主に人力以外の動力による複雑で大規模なものをいい
器械は道具や人力による単純で小規模なものをいうことが多い

と あたしの辞書には記されていたのですが


その場合、自転車は器械で、まさにその感じがスキなのかもしれません。
汗をかいて青筋を立てて筋肉に力を入れないとどこにも行けない感じ。
機械は利用するものだけれど、器械、ことに自転車は、身体の延長のような気がする。
デカルトっぽいかな。

だから例えば
誰かの喪失の象徴として。

毎日ある一定時間その人によって停められていたクルマやバイクが
ある日を境に無くなるよりも
その代わりに
その人によって停められていた自転車が無くなるほうが
ずっとずっと
残酷な気がします。


身体の痛みに還元されるようなリアリティ。

そのリアリティを語る代わりに

或いは

サドルの温かみを密かに撫でて誰かを愛しむという行為の
切迫した官能の崇高さとキモさについて思考してもいいでしょう。

或いは

全力疾走の後に急停車して両足スタンドを立て走り去ったとして
後輪が少しずつ少しずつ速度を落としながらゆっくりと廻り続ける、そのシーンの
至極単純な構図的美しさと
車も時間も感情も急には止まれないということについて思考してもいいでしょう。


いずれにしろ、自転車がスキです。
このリアルでやたら感傷的な器械がスキなわけです。


で、もうちょっとだけスキなところを付け加えると
自転車で迎えにきてもらうのが、スキです。

迎えにきてもらうのにちょうどいい速さ。

恋をするのにちょうどいい速さとも言えます。

クルマで颯爽と横付けされるのも、バイクの後ろに乗ってしがみつくのも
それはもう大好きなのですが、
その人が実際に現れるまでの待つ間に関しては自転車に軍配が上がると思います。

汗を払い抜け道を通り風を感じスピードをぐんぐんあげて口笛を吹いて
東京の郊外特有の夜の温かく湿った空気の中を


誰かがあたしのことを考えながら、リズムを立てて、やってくる。

その感じがたまらなくいいのです。
そしてその、中途半端な速さと、その時間を遣り過ごすこと。全部ひっくるめて。

というわけでここまで読んで気づいた人もいるかもしれませんが
あたしは、自分が自転車に乗るのがスキなわけではありません。
嫌いじゃないんだけどね。
なんでかっていうとうーん
うちの前の坂が立ち漕ぎじゃないと登れないほど急だからだと思いますけど。

でも、ちゃんと乗れますから。お生憎さま。
勝手に乗れないっていう噂、流さないでくださいってば(苦笑)


May 20, 2005

妖精が、スキ

まあ、もう2年も3年も前の話にいつの間にかなるわけなのですけれども。

別に研究者になるわけでもなく
ただなんとなくベケットで卒論書くのも悪くないし
トロントで身体で覚えた英語もドイトレベルのヤスリなんかじゃ済まない程に赤茶けたし
例えば大人の会話を英語で嗜めるよに
例えばそれで口説いたり口説かれちゃったりしちゃったりしっちゃったりで

なんて
なんだかこう俗っぽいというか
留学というか遊学というか暇つぶしというか暇づくりというか
まさにモラトリアムを体現したようなそんな負け犬的な気分で
「…学費…タダか…」
なんて
ダブリン大学交換留学なんかに応募しちゃって
それで気づいたらあれよあれよという間に決まっちゃって
おいおいおいおいおいおいいいって

なんだけどそんなこと正直に言うのもカッコ悪くて
それで


留学の理由を聞かれるといつも


「妖精と喋れるようになりたいから!」


と、不思議ちゃんぶって言うことに決めていました。
(アイルランドは妖精の国なのです。ケルトですからね。ドリーミーならなんでもありなんです。それもレプリコーンとかがシンボルで。シンボル。国の象徴。国花(日本ならサクラとか)とか国鳥(日本ならキジとか)とか、そういうこと。国の、妖精。国妖精。国精。で、これどんな妖精かっていうと靴屋のおっさんなわけなんだけど。全然かわいくないんだよね。)


っていうわけなんだけど
まあ
信念とか記憶とか感情とか嘘とか事実とかあたしとか宇宙とかみんなまあそうなんだけど
出まかせでも、発語するという身体運動に言葉を還元すると
身体が覚えてしまって、勘違いするわけです。
(勘違い以外にじゃあ人生ってどんなファクターで成り立ってるのって言われたらあたしは結構困ってしまうわけなんだけど)


「妖精と喋れるようになりたいから」ってずっと言ってると
不思議なくらいに都合よく

ほんとに
「妖精と喋れるようになりたいから」アイルランドに行きたい

いつしか自分でも思うようになってしまっていたのです。



妖精と喋れるようになったかっていうと
それは内緒なのですが。

そんなことより

あたしは自分がちょっとだけ妖精になった気がしていました。当時。
なんていうか
多分見た目は今と大して変わらないか
あとはもうちょっと肌にハリがあったり髪が茶色かったりせいぜいそんなだったんだけど
まあ、一般女子というか
まあ、人間に十二分に見え過ぎるほどにたとえば左手の小指のささくれまで細胞的には人間だったんだけど


とにかく。それでも。
少なくともいくつかの瞬間において、あたしは確実に妖精でした。


そしてそれに関しては、あたしは、あたしにしては珍しく、結構自信があるのです。

うまく言えないけどその頃あたしは身体部分となんかアメーバ状の精神みたいな魂みたいな塊とをうまいこと分離させてそのアメーバを妖精化して好きにヒトを台無しにできたりしていました。


いい意味でね。

実は最近あまり調子がよくなくて
例えば気づくと連休中に延べ25時間、理由も判然としないままただ嗚咽をあげて大量の水分を垂れ流していたり
例えば風邪薬を睡眠薬代わりに飲んでいたら終にいつのまにか一瓶無くなってしまっていたり
例えば小学校の1階から2階の吹き抜け部に忌まわしく気取って渦を巻いていた白い螺旋階段のように
とにかく不快なほどに不調スパイラルで

だんだん腹が立ってきて、しまいには怒り心頭でよくよくこの状況について考えてみたら


唐突に1つ、その事実。は、大きく反動をつけたブランコに乗ったいしいしんじでいう「弟」みたいに顔面に羽毛のように柔らかい殴りこみをかけてきて


1つ確かなこと。

あたしはいつのまにかどんどん妖精じゃなくなっています。
割と想定外のスピードで。


せっかく妖精になれたのに
どんどんどんどんどんどんどんどん。
気づけばあたしは妖精のことなんて全く忘れていたのです。
(こうやってきっと見えなくなるんだ)
台無しにする方法も。勝手にドアを開ける呪文も。受信するイメージの周波数も。魔法のかけ方とか全部。


結構あっけにとられるくらい。

でも、少なくともあたしは今思い出すことができて。
多分もう完全に妖精になれなかったとしても。
なんとなく手遅れではない気がするのです。
これもあたしにしては、割と珍しく、確信を持てるのです。

だからもう一度少しずつ。
何かが完全にスポイルされてしまう前に。


少しずつ、妖精になる方法を思い出そうと思います。
或いは思い出せないのだとしたら、それは新たに手に入れるとして。

回復。しようとはずっとどこかで思っていて。

でも
ズレてたのはちょっとしたことで

すべからく回復すべきだったのは、ストーリーなんかじゃない。

そこにあった魔法だ。

あと、

April 23, 2005

笑い皺が、スキ

女の子の笑い皺なんて
「笑い」じゃなくて「皺」ばかりが強調されるから


エクボなんてどうでもいいけど
男の子のくっきりと刻まれる笑い皺は
やっぱり「羨ましい」と思ってしまうのです。
(ハリのある肌は素敵だけど、それだけじゃないんだよね。全てはバランスなんです。)


(負け惜しみじゃありません。)


そうそう
昔すごく好きだったと少なくともその時は信じてたかもしれない人がいて
その人は実に見事な笑い皺をつくる人でした。
ほんとにね、くっきり出来るんです。「く」の字に。
大きい目がくしゃってなって、その隣に「く」。
いっぱいの「く」。


今思うと
あたしはその人じゃなくてその人の笑い皺が好きだったのかもなあ
と思います。
少なくとも
その人がほんとに好きだったかどうかよりは自信があるな。


おかしな話なんだけど
笑い皺しっかりをつくって笑ってる人を見て あたしは
ようやく


ああ、この人は今、確かに笑ってる。

と思うことができるんです。


笑い顔を見ても笑い声を聞いても信用できないのに
なぜ笑い皺なら信用できるのか。


そんなこと あたしだって知りません。

まあでも

あたしにとって笑い皺というのは
多分
自分を騙すのにギリギリ必要な証拠なのだと思います。


けれどそうやって自分の中にだけある拠り所は
いつ出来て そしていつまでそこに在り続けるのだろう?とも考えます。
言い方を変えれば 
いつまであたしはこんな煩わしいものに煩わされていればいいんだろう?
ってことです。

何もがなんだか渓流のように涼やかに流れていく。
たまにぐるぐるなったりもする。
そんな清清しいのに、そこでは
渦とは何で、何の象徴か?
なーんて こんなフロイトがトップ切って8時間連続講義しそうなことについて小論を書く暇も与えられないまま
気を抜けば、一瞬で、巻き込まれて、流されて、
もう目が回る。
か、
垂直に落ちる。

手を伸ばしても何もないなら そこにつくればいい。

しがみつく場所は多分捏造するしかないんです。
捏造して、信じ込むことで、こっち側に留まるんです。


くっきりとした笑い皺がスキで
安心してようやく一緒に笑えるあたしは

きっといつか
自分でそういうことに決めたんだと思います。
ギリギリのところで、留まれるように。
勝手に決めて、勝手に思い込んだんだと思います。

そして、それは意外と悪くない。
少なくとも、色んなヒトの笑い皺に一々ドキドキできるのは
トキメキ至上主義者(25歳、独身、東京都出身)にとっては
割と素敵なことです。

妄想とか想像とか虚偽とか虚勢とかファンタジーとか(横文字だとイイものっぽいね)
みんな。


きちんと積み重ねれば、そっちが本当になるんです。

それがキモチイイなら
それがいい


本当になっても、本当は本当じゃなかったことを、不意打ちで思いだしちゃったりもたまにはするけどね。

April 8, 2005

ごくごくたまに、メイクを落とさずに眠るのが、スキ

女の子ですから。柔肌に憧れますから。
10年以上夏の海に行かずにわざと少し脆そうに見えるよう慎重に造りあげた白肌で
その他七難をようやく隠していたりもするわけです。
アセロラだっていっぱい飲むし
チョコラBBは神だって思うし
2日間の労働に等しい額の小さなボトルに詰まった化粧品を買ったりもするわけです。


だけど
ほんとうにほんとうにほんとうに たまに


あたしはわざと 化粧を落とさずに寝てみたりします。


お肌にとって最も悪いのはお化粧を落とさずに寝ること!
これはもう、なんというか、基本の基本です。
(徐波睡眠に入ると成長ホルモンが分泌され、それによって肌再生が行われるのです)
化粧を落とさずに寝た翌朝
わたしの肌はなんだか使い古したオイルで溶いた油彩絵具のようなものが
どろっとしているならまだしも一回りしてかさついて。
ただもう粘土の味がするグルテンの足りないピザのような。
面白いぐらいカサカサしてるのに、吹き出物ができたり。
それはもう
肌にとっては一晩、地獄の苦しみだったのだろうと思います。

それなのに
それなのに


ちょっとだけわざと、メイクを落とさずに眠る。

睡眠欲という動物的な欲望に屈する。
その背徳的な官能を。

あたしは、計算で手に入れます。


ただただ欲望に屈すること。
そんなことばっかしてたら世の中は回らないわけだし
日常生活を大事に送るのはあたしの信条だし
(ルーティーン化された毎日は、守ろうとしてこそ形而上的な観念に近づけるような気がするのです)


だけどたまには
欲望にただ流されてみたいんです。
それが禁忌とヒトが呼ぶのならなおさら。


そしてそれはたとえば。
フリだって、構わないと思うんです。

罪悪感と後悔と悦楽が相まって
そう、ちょうど背中の中心よりもすこうし下のところから
全身に向かってぞわぞわぞわってする。

たとえば水深50mの海底を想い 
ぐっと水圧のような引力でただただ気持ちいい場所へ沈んでいくような。


甘くこそばゆい感じを、また。
そのカンカクをただ味わいたくて
あたしは巧みに計算を繰り返します。

それは。
欲望に屈しているようにみせかけて、欲望に屈したいという欲望に屈する
計算と演技と周到に用意された滑稽な騙し合いなのです。


計算は理性で
欲望は理性を超えるはずで。
計算で叶えられる欲望は
もはや動物的な欲望なんかじゃない。
笑っちゃうよねえ?
嘘まみれで演出演出でみんなほんとは立ち位置がバミってあってきっと最後のセリフの秒数だって決まってる。カット変わったら位置盗んで繰り返して。そこの右腕の肘、角度覚えておいてくださいねー。あとで繋がんなくなっちゃうんで。あ、キッカケだけちょっと大きめにもらってもいいですか?ちょっと入りマース。お粉もう一回はたくんで目つむっててもらっていいですかあー?ねえ、ここ次で切り返したいからその前逆向いててもいい?これ熱いよ。なんとかならない?テストいきまーす。あ、すいません。雲待ちでーす。


でも。

そこの計算を
計算だとわかっていながら
計算じゃないふりを押し通すのが大人の遊びのルールな気がします。

それにね。
なんかの加減でその計算を間違えてなにかが決定的に違ってしまったとき


そのほうが純粋な欲望なんかよりよっぽど危険でよっぽど醜悪で
同時に凄惨な美しさを孕むと思うのです。


なら。ねえ。

やっぱりそっちがしてみたくないですか?

March 12, 2005

焼きたてパンが、スキ

「そんなことないよー」と呆けてみても
もうあまりかわいくない年頃なので諦めて白状しますけれど。
あたしは
約束の時間にきちんとどこかに着くことができない人間です。
本当はこのあとに何故そうなってしまうのか、それを解説しようとしていたんだけれど
なんだかそっちの話の方が楽しくってパンに集中できないのでまた今度します。
(今度?「今度」、ってなんだかうさんくさくて淋しい。うまく吐けていないのに、みんながつい騙されたフリをしてしまう嘘みたいな。「そのうち」?「そのうち」もな。)

とにかく
あたしはその日
大切な約束に確実に遅れていて。
本当はせっせせっせとせめて走れるところは全部走って
「ごめーん」と罪なく愛らしく笑えるように少しは汗ばまなくちゃならないのに。
ごしゅごしゅごしゅごしゅ
と弱気なエンジン音を漏らすバスから飛び降りてみたあたしは
虚無さえ想起させる絶望的な空腹感に苛まれていて
もうどうしようもなくイライラしていたのでした。


家のすぐ近くを通る
そのオーストラリア人的気質ののんびりバスが着く地味な駅には。
中途半端な内装とありがちな名前のついた
ショッピングモールとすら言えない小さいビルがくっついていて。
その1階には
これまたどこにでもありそうな
お決まりの茶色い内装と、思い出せない横文字の店名の
ちゃちな小さなパン屋さんがあります。


いつもは素通りするその小さなお店に駆け込むと
あたしはゆったりと流れていた店内の時間を掻き乱すような速さでパンを物色しました。
パンパンパンパンパンパンパンパン。
パンパンパンパンパンパンパンパン。
(ところでパンって、貧乏くさいよね、どうしても。響きが。ヤマザキパンの功罪についてしばし思いを馳せる。)


あたしのパンランキングはここ数年あまり変動がなく。
お気に入りを見つけると、他のものに手を出さないという自身の性質により
通常パン選びはあまり難しくありません。


上質メロンパン
安価もっちりチーズパン
クリームチーズ入り硬めレーズンパン
ミルククリーム入り柔らかめフランスパン
硬めシナモンレーズンベーグル


基本はこんなものです。
この中で状況に応じて組み合わせてみたり、ごく稀に第2候補のあんドーナッツやガーリックトーストやクイニーアマンや蒸しパンやソーセージ入りパンなんかを織り交ぜてみたりもします。

けれど信じられないことに。
そのパン屋には「クリームチーズ入り硬めレーズンパン」しか存在しなかったのです。

まあ正確に言うと
上質でないメロンパンとあまり安くないもっちりチーズパン(あの一口サイズで80円は高い)はあったのですが、そんなものはリストに入っていないと言っても過言ではないのです。(だってモノクロでしか印刷できないカラリオは最早カラリオじゃないでしょ?)

というわけで
非常に急いでいたあたしは急いでいるにも関わらずそこでひとしきり悩むことになり。
でももうどうでもよくなって
目の前に置いてあった『ただいま焼きたて!』と書いたPOPが立てられた

ポテトハース

という名の
なんだか小さな丸いフランスパンにポテトが入っているという
炭水化物×炭水化物な
女子としてはナンセンス極まりないものを購入してしまったのでした。

それは屈辱でした。屈辱と敗北感。

でもね。


改札を通り抜けながらみっともなくパンを貪るあたしは衝撃のあまり
このあとパスネットと間違えてバスカードを連続2回改札に通そうとするという失態を晒すことになります。


「焼きたてポテトハース」は


「クリームチーズ入り硬めレーズンパン」なんかより


ずっとずっとずっと、美味しかったのです。


もっと言うと
そんな小さなパン屋さんの中の相対評価ではなく。
今まで、少なくともここ2年間にあたしが食べたパンの中では間違いなく一番美味しかったのです。

これは今まで「焼きたて!」なんていうPOPに一度も影響されたことがなかったあたしにとってこれは事件でした。本当に本当の衝撃でした。


TBSの2時間ドラマの最後で探偵役の船越英一郎が

「犯人は今フジテレビで司会をやってる奴だ!今すぐチャンネル変えろ!」
「変えろ変えろ変えろ!」
「うぎゃあーーーーー!」
「なーんてね★」
「サツマイモ、2000円ダヨ。ヤモリヤモリ!」
と画面からはみ出しながら笑いかける


という劇的結末と同じくらいの。

「焼きたてポテトハース」が美味しい。
「焼きたてポテトハース」が美味しい。
「焼きたてポテトハース」が美味しい。

感動で足取りも軽くホームまで向かったあたしは
その電車が新宿に着く頃、ようやく思います。


悲しい。


「焼きたてポテトハース」は確実に美味しくて。
お気に入り「クリームチーズ入り硬めレーズンパンよりも確実に美味しくて。
それは揺るがない事実だけにひどく悲しいものでした。

それは
あたしが「クリームチーズ入り硬めレーズンパン」だったら
もちろん悲しいわけなんだけど。
あたしが「焼きたてポテトハース」でも
やっぱり悲しいと思うのです。

焼きたてのタイミング。
それにあたしの欲望も官能も感動もなにもかも
全てがコントロールされていて。

そんなもので惨敗を喫した「クリームチーズ入り硬めレーズンパン」も
そんなもので美味しさを評価される「焼きたてポテトハース」も
そんなものにコントロールされたあたしも


全てが一様に悲しく 無力なのです。

どんな感情も。
どんなに狂おしく強烈な強度をもっているような感情でも。
それは絶対でもないし永遠でもないし
それどころか


今日もパン屋は
いつもどおりバスのロータリー前で
いつもどおり地味に営業を続けています。

でも
あたしは多分。
もう「ポテトハース」も「クリームチーズ入り硬めレーズンパン」も買わないと思います。


少なくともあのとき
「ポテトハース」は本当に美味しくて
あたしは本当に嬉しかったから。

なんていうか
それだけでいいんです。


美味しくて嬉しい。それだけでいいんじゃないかと。
焼きたてじゃないときに買って、何を試すのか。

検証して楽しいことはひとつもない。


「クリームチーズ入り硬めレーズンパン」を買わないのは
ただなんとなくです。


なんとなく
あたしが「クリームチーズ入り硬めレーズンパン」だったら買って欲しくない気がして。


焼きたて。


あたしは、いつなんだろう。

February 13, 2005

ごっこが、スキ

子供の頃あたしは
まずパーマン3号(パー子)のバッヂを持っていて。
それからひみつのアッコちゃんのコンパクトも持っていて。
あとあとクリーミーマミのステッキも
ストーリー後半で登場する星型タンバリンも持っていて。


そういうの、全部。
テレビ通り。
ほんとに機能するものだと、思いこんでいました。


婦警さんやら看護婦さんやら車掌さんやら花屋さんやら
あたしはいつだってちゃんと
それらに変身できていると、思っていました。
鏡に写るのはいつもと変わらない
目と目が離れ気味な見慣れたマヌケ顔でも
周りには正しく見えていると。信じていました。
だって実際
呪文を箪笥の陰で唱えて颯爽と現れるあたしはいつだって。
婦警さんみたいな口調で喋り、看護婦さんみたいに手早く絆創膏を貼り


そう。
惚れ惚れするぐらい、かっこよかったんです。


ある意味でそれは
ごっこ遊びでは無かった気がします。
そんなものよりずっとめんどくさい
魅惑的な思い込みだったんです。


やがてあたしは少しずつ年をとり
やがてあたしは少しずつ恥をかき
やがてあたしはちゃんとふつーに。
ゴム飛びしたりお喋りしたり音楽聴いたり読書したりカラオケしたり


まあ、それなりに。したり。したりしたり。



変身!とか
かわいいね。笑っちゃうね。
そうー、小さい頃は結構素直だったんだよねー。
騙されやすくてさー。いじめられっこだったんだよねー。


思うようになりました。
むかしむかし。むかしのこと。
てくまくまやこんてくまくまやこん。
ぴんぷるぱんぷるぱみぽっぷん。
(ところでこういう呪文って。どうやって決めるんだろう?すごくステキだ)




けれど最近になって、ごっこ遊びがスキなわけです。
ぴんぷるぱんぷるぱみぽっぷん。
今度はちゃんと遊びです。
それにもうヒトになろうとするわけではありません。
感情のごっこをするのです。
様々な感情をうまくコントロールしてオペレートするのに
ごっこは驚くべき威力を発揮します。


悲しいごっこ。楽しいごっこ。大好きごっこ。友達ごっこ。もうどうでもいいごっこ。


全てをごっこにすることによって
あたしはキミをグシャグシャに握りつぶすことも
ドロドロに呑み込むことも避けられるんです。
これは
想像するより遥かにステキで
憧れるよりはやや大したことではないことです。



とにかく二人の境界線を侵害することは
もう、大丈夫。ないんです。


あたしたちはちゃんと
いつまでも2個の固体にとどまり
体積はこの皮膚を突き破らない。


それに
ごっこは遊びなので
全てが終わればその感情がマイナスでもプラスでも一様に楽しいんです。
あー終わったね

そのあとは。
イヒヒとかプププとかケラケラとかとにかく
何にせよ全部笑えちゃうんです。




だから。
たとえばどちらにしろ魔法は解けるのなら。


だらだら続くごっこ遊びだって、意外と。
悪くはない、と思うのです。


December 27, 2004

長い髪が、スキ

まあ。
スキだからこそ人生の半分以上
この同じ胸にかかるほどのストレートロングでありつづけているわけなのですが。
それでも
ショートにしたり
パーマをかけたり
はたまたワカメちゃんも桃井かおりも驚きの大正モガ風おかっぱ頭にしたり

そんなこともかつてはあったのです。


けれどいつだって。
そうやって「なんとなく厭きた」という曖昧な理由で髪型を変えてしまった翌日には
あたしは引き篭もりにならんばかりの勢いで後悔し
決まってエレンス2001を気休めに頭中に振り掛けるのでした。

長い髪がスキなわけはいくつかあります。
例えばあたしの髪の癖の按配がロング向きであったり(うねりが大きいのです)
意外とセミロングなどよりアレンジがしやすかったり
少女好きなあたしですから、ついそのベタな少女っぽさについ心惹かれてしまったり
それに暇な時には三つ編みをだらだら編んではほどいてみたり
新しいまとめ髪を開発したり
それに、不機嫌なときにはそのストレスを両の10本の指に溜め、赴くままに髪をぐちゃぐちゃぐちゃっと攻撃的頭皮マッサージのように掻き乱したり(ボリュームある長い髪はなんだかシューベルトの歌曲のような大袈裟さで跳ねては絡まり、なかなかどうして、見た目はさておき、本人はしごくすっきりしたりします)


要するに長い髪は便利なわけですが。
でも一番得したな、って思うのはやっぱり撫でてもらったときです。

もっと短い髪だったら。もっと短い距離しか撫でてもらえないから。

背中の真ん中まで伸びたこの髪を
すぅーんと撫でてもらうときは、やっぱりすごく嬉しくなります。
大して手入れもしていないし毛先は痛んでるわけですが。
それでもたまたま髪の話題で、もしくは誰かが冗談で、それとも美容師さんが仕事で。
この髪をすぅーんと撫でるとき。
あたしは髪が長くて本当によかったと一人ほくそえむのです。

みんなは髪を撫でていることになっている。
でもあたしは首や背中や肩や、身体を、皮膚を、
こっそり撫でてもらっているのです。

それはなんだか白昼堂々と行われる淫靡な行為のようで。
あたしは必要以上にドキドキしてしまいます。
皮膚の上を誰かの皮膚が滑るよりも。
皮膚プラス髪があたしの皮膚にもたらすちょっと複雑な感触の方が。
なんとなく。
より上品でより官能的でより背徳的でより神秘的な
そんな気分にさせられるのです。


長い髪の秘密。

これは、誘惑です。

December 14, 2004

口癖が、スキ

初めて自覚したのは
多分ジェニファーのときだと思います。


5歳で突然異国の地に放り入れられたあたしにとって
ぽっちゃりした外見を裏切らない寛容の見本のようなジェニファーは
数少ない貴重な友達でもあり、また会話モデルでもありました。
ジェニファーとばかり居たあたしにとっては
ジェニファーの英語が世界標準だったのです。
彼女の一語一語は無意識にあたしの会話用テキストとして記録され、
いつしかあたしの口は。
ジェニファーとそっくりに機能するようになっていました。


ヒトに指摘されてようやく気付いたその現象は。
なんだかひどく嬉しかったことを覚えています。
彼女の国のコトバを手に入れて。
あたしはようやくジェニファーの世界に属せたのです。
ある意味で。
彼女の一部があたしになったのです。


そしてあたしたちは実にたくさんのことをその同じコトバで喋りました。
あたしたちは美味しいチョコの話を、ママの小言の話を、近所の猫の話を、新しくできた視聴覚室の話を、ナルニア王国の話を、州名を暗記する便利な歌の話を、プラスチックブレスレットの新しい編み方の話を、図工用糊を何故かいつも食べてしまうクリスの話を、ちょっとだけスキだったアレックスの話を、

あのころのジェニファーの口癖を明確に思い出すことは、もう、できません。
でも確実に。
今あたしの喋る英語の一部は
ジェニファーなのです。


日本語は英語ほどそう影響力はありませんが、
それでもあたしはヒトの口癖がうつる方だと思います。
うつってしまうのか。わざとうつるのか。
最近では最早よくわかりません。
でも多分。
キミの口癖は、わざとうつってるのだと思うのです。
注意深く真似て。
できればいつまでだって忘れないで。
知らぬ間にあたしのコトバにしてしまいたいのです。


そうすれば一時の自己中心的な盛り上がりで
「パッショネイトってこういうことね」と
諸々を燃やして割って流して壊して捨てて吐いて剥いで裂いて斬って


だとしても。


キミのコトバは多分。
そんなあたしを嘲るようにもうすっかりあたしのコトバになってしまってて。
届かないところで静かに勝手に居座り続けるのです。
ぱっしょねいとなんて届かなところで。
静かに。
あるいは気紛れに
鈴の音のような微かな頭痛と
射るような光を想起させる耳鳴りを引き起こしながら。


そしてまた。
きっとあたしの口癖はキミにもうつって。
あたしの口癖がキミの口癖になって他のキミの口癖があたしの口癖になって前のキミの口癖があたしの口癖でそれがキミの口癖になって他のキミの口癖になってるころには前のキミの口癖はアノコの口癖になってアノコの口癖は他のキミの口癖になってキミとアノコの口癖は他のアノコの口癖があたしの口癖かもしれなくてキミの口癖はあたしの口癖で。

ところで。


手癖が悪いと言いますが。

口癖が悪いとは言わないのでしょうか?


October 29, 2004

夢が、スキ

本当によく夢を見ます。


ほぼ毎日夢を見るのは勿論
日常の僅かな隙間で堕ちた眠りでも
それが1分だろうと10秒だろうと
膝ががっくりと唐突に折れるよりも先に
容易く夢の世界に彷徨いこみます。
電車の中でも会社のトイレでも歩きながらでも
(そう、歩きながら寝てしまうことがとてもよくあって
時々本当に生命が危機に晒されるのですが、その話はまた今度。)
とにかく、現実からどこかへ。
境界はいつも途方もなく曖昧です。

夢のステキなところは奔放で勝手なところです。
頭のおかしいDJがミックスしたメチャクチャな音波の連続に
ただ身を任せ何も考えずに踊るような。
手に負えないものを楽しむということ。
コントロールできないところで起きる何かは
時にきっと
しなやかに現実とすり替わっていたりもします。


昔、とても親しかったヒトがいます。
けれど様々な事情のために
(こういった事情は、往々にして壮大なスケールの面倒臭さと芸術的バランスを同時に兼ね備えていて、うっとりとさせられます)
あたしたちはやがて
お互いからなるべく遠い場所へと離れていきました。


けれどある日唐突にそのヒトから連絡がきて。
それはひとつの夢の報告でした。

あたしはそのヒトの夢の中で
パーティーが盛り上がるそのヒトの部屋の
ベッドの下でとても静かに死んでいたそうです。

あたしたちはそんな夢を笑い
お互いの近況を話したりして
沈黙が訪れる前に和やかに電話を切りました。


けれどあたしはその電話の間中ずっと
今、電話越しにその話を聞いているあたしよりも
昨夜、そこで死んでいたあたしのほうが本当なんだと感じていました。
きっとよっぽどリアルにキミに対峙していたんだと。


キミの夢の中で静かに死ぬということ。


その息を呑むほどの完全なイメージは
少なくともその時点のキミとあたしにとって
それはもう。

それはもう。
どうしようもないほど揺るがない
はっきりとした現実だったんです。

入れ替わってすり抜けて融解して乖離。

いろんな大事なヒトたちに。
いろんな大事なモノたちやコトたちに。
最近は、できれば夢だけで会っていたい、と思ったりもするのです。

そうしていればいずれ。
そっちがあたしにとっての現実になるんですから。

July 8, 2004

手首が、スキ

手首はわがままだと思うんです。
少なくともあたしの手首は。
うん。多分そういうことだと思うんです。

外気に手首が晒される夏。
手首に何もつけないで出掛けることは少ない。
銀の時計やビーズのブレスレットでもたまには持て余したヘアゴムも。
何かは、そこを飾り。
言い訳を携えて囲みます。


グラングラン不安定で落ち着かない無防備なその関節を守るように。
ぐるんぐるん小物たちは、囲む。

だけど縛られているのは煩わしくて、煩わしいのは憎むべきことで。
室内に入った途端あたしはすぐに何から何まで剥ぎ取ってしまいます。
窮屈さと不快感。
タートルネックのニットがやたら気になる冬の首を思い出しながら。


弛んで弛んで。
脱力。その象徴のただいまの儀式。

とはいえ
この手首を誰かにぎゅっと掴まれたとき
ひどく安心してしまうのは何故なのだろう。
手を繋ぐことよりもずっと受身で、それは甘い強制連行のようで。
誰もやってくれないときはしょうがないので
少しだけより逞しい右手が、少しだけより不安定な左手首を握ります。
きつく縛り上げるように固く。
それは多分、何かの確認です。


ほらほらほら。
そうして今日も境目が曖昧に溶解することを阻止。

緊張―弛緩。緊張―弛緩。緊張―弛緩。
気まぐれに欲望し、何のバランスを取るのだろう。

わがままだ。
要するに、そういうことなんです。

うん。
それはそう。

多分、全部このでっぱりのせいなんです。
そのワガママさもイトオシサも。

全部このでっぱりのせいだと思うんです。

June 15, 2004

甘いのが、スキ


あろうことか
このあたしが最近お菓子作りに目覚めました。


とはいえレパートリーはまだまだひどく少ないのですが。


それでも、
指一本余計に動かすことさえ厭い、
得意料理は野菜炒めという
あたしの性質を知ってるヒトにとっては驚愕する事実だと思われます。


でもやっぱり作りたいのは甘いもので。
相変わらず普通食には興味がいまひとつ沸きません。


甘いものを作り始めたそもそものきっかけは。
それは過度の疲労と焦燥となんかよくわかんない怒りと
それがごっちゃになって生まれた浮かれた気分からでした。

長い一日の終わりにあたしは気付くと東急ハンズにいて。
値の張るチョコや綺麗な包装紙たちと引き換えにお札たちを手放し。
次の日30個のバナナチョコレートマフィンを焼き狂ったのでした。


元々は
バナナチョコマフィンなどにさして興味はなかったんです。


ただひたすら

正確に分量を量り、チョコを砕き、バナナをぐちゃぐちゃと潰し、電動泡立て器の振動に身を任せ、カップに流しいれ、綺麗に鉄板上に並べ、ひたすら焼く


そんなことがしたかっただけなのでした。

でも、そう。
そこは、さすが、甘いもの。


そのバナナチョコマフィンは想像以上に美味しく、
あたしはなんだか本当に幸せな錯覚を起こしたのです。

とろければいい。おぼれればいい。

その甘さはうっとりと脳細胞を麻痺させたのでした。

その上。
なんだかんだでいろんなひとに配ってみて。
みんなが甘いものに溺れて
少しだけタガが外れる様を見るのも悪くないなー、と

そんな小さな楽しみも。
意外とまともに知ってしまったのです。

そんなわけで。
最近はケーキなんかも作っちゃったりして。


周りを巻き込みながらの甘いもの道。

溺れるのに飽きるまでのしばらくは、邁進したいと想います。

May 24, 2004

トーキョーの空が、スキ

トーキョーの空は、青いですか?


あどけない智恵子がなんと言おうと、
あたしは
トーキョーの空は、トーキョーの空としては、完璧に青いと思います。


何故なら3歳のあたしは
トーキョーの空を指差されて

「あれが、アオだよ」

と教わったからです。


澄み切ったところの空で育った誰かがトーキョーの空を見れば。
ひょっとしたらトーキョーの空は青くないのかもしれません。
けれどもあたしにとってはあくまで

トーキョーの空が、「アオ」で
田舎の空は、「深いアオ」や「透き通ったアオ」、でしかないのです。

それに多分。
トーキョーに居る、そしておそらくは居続けるあたしにとって
トーキョーは、ちょうどいい青です。

あまりに濃くてもあまりに鮮やかでも
どうもそれは。
トーキョー、
そしてトーキョーのあたしには似合わないような気がして
なんだかむずがゆく、落ち着かないのです。


それでももし。
あなたがトーキョーの空を青く無いと言うのならば。
トーキョーの空を空では無い、と恨めしく嘆くのならば。

トーキョーの青くない空をじっと。
ちょっとの時間でいいのでじっと見つめてみてください。


急ぎ足で肩ぶつけながら
白濁した中に確かにある青を目を凝らして見つけるのも
意外とステキだと思いませんか?

April 22, 2004

ちゃちなニセモノの宝石が、スキ

小さな本物をさりげなく。シックでスマートな女性の鏡です。


だけどあたしにとって宝石といえば。
やっぱり小さいとき憧れた
テラテラキラキラちゃちに輝くバカっぽいおっきなニセモノなのです。

そう、おもちゃ売り場の片隅でそれらは色とりどりに輝いて。
あたしはそれらを毎月少しずつママに買ってもらうごとに、
一歩ずつ確実に憧れのお姫様に近づいてる!と信じていました。
(各所で言ってますが、小さい頃あたしは、大きくなったら姫になろうと思ってました)


大きくなったあたしは
いくら宝石を身につけても
そう簡単には姫になれないことをさすがに知るようになりました。
それ以前に、本物の宝石は
そう簡単に買えるものでもないことも知りました。
ましてや、中世以前の姫たち
(そう、あたしのイメージする姫はいつだってボワッっていうスカートにちょうちん袖のドレスを来て、城の最上階の小窓から、民衆を眺めて微笑んでいなければならないのです)
が身につけるようなやたら大きい宝石なんて
多分日本の小市民のあたしには
一生手の届かないものだという現実も目の当たりにしました。


当たり前です。
夢ばっか見て生きてくわけにはいかないのです。
小さなダイヤのついた指輪に涙して
小さな幸せを大事に育みながら生きてくのが立派な人生ってものなのです。

わかってるんです。
一応は、わかってるんですけどね。


それでもやっぱり。
オトナになりきれないあたしはお姫様ごっこをするのが大スキで。

そんなとき身に纏いたいのはテラテラキラキラ輝く
プラスチックやガラスの宝石たちなのです。

できれば笑っちゃうくらいちゃちなやつがいい。
虚構を遊ぶためにはそれくらいでないと危険です。


考えてもみてください。
本当に姫になったら、いつかは女王にならなきゃならないんですよ?
そんなの、かわいくないじゃないですか?

ずっと姫でいるために。
あたしはニセモノを選びます。
ニセモノの世界とニセモノの宝石。
どちらも本物に必ずしも見劣りしません。
むしろ時にそれらは。
本物よりずっとずっと
デリケートでチャーミングだったりさえするのです。


これは宝石の一部を名前に貰っているあたしの
翡翠の上品な輝きに対する宣戦布告とも言えます。
憧れるけれども、超えていけるように。


ちゃちでも、めちゃめちゃに輝けるように。

April 4, 2004

ラブレターが、スキ

喋ることはあまり得意じゃなくて。
ヒトと目を合わせることも。

だからかもしれませんが、
あたしはラブレターを
一般的な人間より遙かに多く書きながら生きてきた気がします。
とはいえ、このご時世。
何も全て手書きではありません。
キーボードで叩きだされたり、右親指1つで紡ぎだされたり。
でも、とにかく、文字で。
誤解の多い、しょうもないコトバで。


おかしなもので
実際に誰かに届いたものの内容はあまりうまく思い出せません。
澱のように記憶の裏側に溜まっていくのは
届かない前提で曖昧に放りなげて
届いたのかさえ
未だうまくわからないものばかりです。


ときに目障りで
ときにうっとうしくて
でもやっぱりイトオシクテ。
あたしは、そうやって取り残されたラブレターが、スキです。


だって。
そうやって考えると。


文字になってここそこに落ちているコトバは
もしかするとだけど
もしかすると

みんな曖昧なラブレターかもしれないと思えるから


元々は
誰かを想って投げられたはずの
しょうもないラブレターだったかもしれないと


そんなくだらないモノオモイに耽ることができるからです。

そうやってラブレターを拾うと
あたしは少しだけ嬉しくなります。
少しだけ嬉しくなって
ほんのちょっとだけセツナクなって
でも
アタマに浮かんだキミに
久しぶりにラブレターを書きたくなるんです。


そう思ったきっかけは多分
目黒通りの交通表示用の電光掲示板で。
オレンジに光る文字は
「夕暮れ時 事故多発」
となんとなく書いてあったのです。

昼下がりになんとなくやられたあたしは
もっとあとになって

あれもラブレターだったのかな、と。


夕暮れに目が眩んで
踏み外して堕ちて知った柔らかなダレカの肌への讃歌なのかな、と。


そしたら急に
オレンジの文字も
文字を考えた知らない誰かも
それに気づいた全てのヒトも
気づかずにどこかで暮らすきっと静謐な美しさを今日も匂わせる受け取らない受取人も

みんなただもうイトオシクなってしまって。


そしてラブレターを。
脳裏に浮かんだキミに
どうしても書きたくなってしまったんです。

だからそう思ってこの文章も読んでくれたら。
これも、これまでのも全部、
ただのできそこないのラブレターだったと。
そしたら、少しだけ。


ラブレターを。
久しぶりに書いてみる気にはなりませんか?

March 2, 2004

正しい休日が、スキ


あなたにとって正しい休日とはどんな休日ですか?


正しい休日とは、

遅めにダラダラとベッドから這い出し、
たっぷりとした朝食を食べ、
雑然とした部屋を適当に整理し、
平日のうちにやり損ねた雑事を片付け、
少し汗ばむくらいに運動し、
鼻腔を和ます匂いの中でゆっくりと身体を解し、
乳白色のお風呂に身を沈め、
冷えない内に温もりを抱いてベッドに滑り込む


ずっとそう思ってました。


一週間溜まった垢や澱を丁寧に落として
来るべき新たな一週間に備えて自分をリセットする。
いわば自分の大掃除みたいなもの。
休日とは、そうあるべきものであると思ってました。

けど。
けど、違ったんです。
正しい休日は、そんなもんじゃ、なかったんです。

正しい休日とは、決して
平日のマイナスをゼロに戻すような
平日の汚れをゴシゴシと落とすような
平日を生き抜くための補佐的役割を果たすような
平日との対比で成り立っている僅かで貴重な休憩のような
そんなものではなかったのです。


本当に正しい休日とは。
認識している自分とこの世界を、キレイにする日ではなくて。
それらを一度キレイに捨てて、
新しい世界、もしくは忘れていた世界と出会う日なのです。


正しい休日は、それ自体が最早キセキであって。
その一日だけで宇宙が成立してしまいます。
莫大なエネルギーを蓄えたその日、
時という流れに貼った時間というラベルは無意味と化します。
今何時なのか。どこまでが昨日なのか。平日ってなんだったのか。


前後不覚に堕ちていくようにみえて
実は穏やかで多幸感に満ちた正しい休日。


わかってることは、
あたしがここにいて、
キミもここにいるということ。
あたしはキミの繊細な肩の抱き方がスキで、
キミはあたしの小さめな耳がスキだということ。
秘密のドアを二人で開けるということ。
陽はあたたかに昇り、いつのまにか落ちるということ。


なによりも、あたたかい、というカンカク。

正しい休日が終り、訪れるのは。
先週と同じような今週ではなく、確実に少しだけ変わった日々です。
いつのまにか残された優しい痕は
正しい休日を引き摺って。
調子が狂ったあたしは少しだけ混乱して
溶解した意識を恨めしく想います。


普通の休日のほうが、もしかしたら合理的に平日を生きられるのかもしれない。

ドアを閉めるのがあまり巧くないあたしはちょっとだけ考えます。
それでも。
キセキ的に正しい休日は、
やっぱり恐ろしく正しく。
どうしようもなく魅力的なのです。

もしもあなたが正しい休日をまだ知らないのだとしたら。
あたしがアドバイスできることはとりあえず2つだけあります。


ドアを開け放つことと、
甘ったるい生クリームに溺れてみること。


多分、思ってるよりは、簡単なことです。


February 16, 2004

偶然と、仕組まれた偶然が、スキ

それはもしかしたら。
幼いころのあたしの夢が、
姫だったり、占い師だったりしたことに関係するのかもしれません。


例えば人ごみのなかでウソのように出会ったり。
号泣するために息を吸った瞬間に優しいメールが来たり。
どうしても聞きたい唄を急にあなたがヘタクソに鼻歌ったり。


とにかくあたしは偶然にめっぽう弱いのです。
偶然はキセキに、キセキは運命に。
意を介さずにいつもそれは自動的に変換され。
すべての偶然を「運命だ!」と信じこみます。
魔法にかかったように
あたしはただドキドキする心臓を恋と錯覚します。


幼稚なろまんちしずむは、
この十何年いくつもの弊害を生み続けてきました。
幼稚園では親が先生に呼び出され。
大学では危うく単位を取り損ね。


それでもやめられないのは
やっぱり魔法にかかりたいからなのでしょうか。


けれど偶然なんてものはそんなしょっちゅう訪れてはくれなくて。
欲しがってばかりのあたしたちはしびれをきらし
偶然を装い、時計とにらめっこしながら誰かを待ち伏せしたりするのです。


何年か前からか。
あたしは偶然と同じくらい、仕組まれた偶然を愛すようになりました。


わざと忘れたMDや
わざと鉢合わせたかふぇや
わざと失くしたライターや


みんなみんな
なんてみっともなくて、なんてしょうもなくて、
なんて愛すべきことなんだろう、と。


仕組んだ偶然がうまく偶然になれば
それは多分本当の偶然よりステキだし。
仕組んだ偶然がいつか偶然になるようにと祈り続けることも
苦しいだけ、多分
同じくらいステキなことだと思うのです。


アナタが初恋のヒトの家の前をわざと通り続けたり
あたしが東横線に乗るたびに全車両に神経を行き渡らせたり
キミがたまらずに新宿駅構内をくまなく全力で疾走したり


ほんとバカみたいとしか言いようがないです。
偶然また会おう
なんて、もう、ねえ、
3年早く会ってたら良かったのに
と、同じくらい意味を成さないコトバたちです。


けど、あたしはそういうバカなヒトが好きです
途方に暮れて、徒労を引き摺って、
捨てられない一握の希望が手の中で汗まみれになって
その形状さえ跡形を亡くしてしまっているのに
それでも煩悩に負けてしまう
そう、ちっぽけに苦しんでるヒトが割りと好きです


だから今日も。
あたしはトーキョーの真ん中で偶然を待ちます。
偶然と仕組まれた偶然を待ちながら
自分の仕掛けた偶然が偶然になるのを待ちます。


それと、あと。
そんなあたしを馬鹿にして
顔をくしゃくしゃにして大笑いしてくれる全く想定外の王子様の偶然の登場を待ちます。




あー。
やっぱり成長してないなぁー。


February 8, 2004

夕焼けいろが、スキ

夕焼けがスキなんて、なんかセンチメンタルすぎて。
なんとなく気恥ずかしいと若いころは思っていました。
なんかフツーだし。なんかセーシュンっぽいし。


でもねえ。
やっぱりやっぱりやっぱり
どう否定してみても

スキなものはスキなのです。


あたしがココにいることや
キミがドコカにいることや
同じ夕陽が今日は違う夕焼けを見せ付けることと


おなじくらい。

そう、
しょうがない、のです。

夕焼けの何がスキって、多分、色です。
でも何故かいつもそれは上手に伝わらなくて。


長く伸ばした髪を「夕焼けいろに染めてください」と言ったあたしに

受付のおねーさんは「オレンジ?」と
アシスタントさんは「ピンク系?」と
美容師さんは「え、ムラサキとかじゃないよね?」と

みんなちょっと困った顔で言うのです。

キレイと言って見上げた夕焼けは、
よく見ると毎日ちゃんと違って。
薄い血の赤、コンムラサキ、鮮やかなオレンジ、
コトバでは説明しきれないほど、いろんな色が滲むのです。
だけどどんな色でも、どんな組み合わせでも、
燃え盛る朱でも、泣き出しそうな菖蒲色でも。
ちゃんとそれは。
いつだって「夕焼けいろ」なのです。


ぜんぜんちがうのに。
ぜんぜんぜんぜんちがうのに。
いつだって同じようにやさしくて。
同じようにかなしくて、つらくて、ざんこくで、
でもなにより、
同じようにウツクシクて。
定義しようとすればいつだってすり抜けてしまうのに
「夕焼けいろ」の色はみんなバラバラに想うのに。


それなのにみんな。
「キレイ」と言って首を曲げて。
切なさや刹那さに乗じて
少しだけ泣いたあの日のことを思い出して。
もっと深く。首を痛いくらいに曲げてみたり。
センチな自分を嘲ってみたり。
涙を出さずに泣いてみたり。


バカみたいに似たようなことをみんなしてしまうのです。
とてもとてもミリョクテキな顔で。
悪戯な水彩画の前で
とても無力に
何色かもわからないいろに染まってしまうのです。


説明できないのに、ちゃんとそこにいて。
みんなをミリョクテキにする夕焼けいろにちょっと嫉妬します。
そのキレイさとそのイイカゲンサとそのチカラに。


イメージカラーが夕焼けいろになるように。
今のあたしの密やかな目標です。

夕焼けいろが、スキ

夕焼けがスキなんて、なんかセンチメンタルすぎて。
なんとなく気恥ずかしいと若いころは思っていました。
なんかフツーだし。なんかセーシュンっぽいし。


でもねえ。
やっぱりやっぱりやっぱり
どう否定してみても

スキなものはスキなのです。


あたしがココにいることや
キミがドコカにいることや
同じ夕陽が今日は違う夕焼けを見せ付けることと


おなじくらい。

そう、
しょうがない、のです。

夕焼けの何がスキって、多分、色です。
でも何故かいつもそれは上手に伝わらなくて。


長く伸ばした髪を「夕焼けいろに染めてください」と言ったあたしに

受付のおねーさんは「オレンジ?」と
アシスタントさんは「ピンク系?」と
美容師さんは「え、ムラサキとかじゃないよね?」と

みんなちょっと困った顔で言うのです。

キレイと言って見上げた夕焼けは、
よく見ると毎日ちゃんと違って。
薄い血の赤、コンムラサキ、鮮やかなオレンジ、
コトバでは説明しきれないほど、いろんな色が滲むのです。
だけどどんな色でも、どんな組み合わせでも、
燃え盛る朱でも、泣き出しそうな菖蒲色でも。
ちゃんとそれは。
いつだって「夕焼けいろ」なのです。


ぜんぜんちがうのに。
ぜんぜんぜんぜんちがうのに。
いつだって同じようにやさしくて。
同じようにかなしくて、つらくて、ざんこくで、
でもなにより、
同じようにウツクシクて。
定義しようとすればいつだってすり抜けてしまうのに
「夕焼けいろ」の色はみんなバラバラに想うのに。


それなのにみんな。
「キレイ」と言って首を曲げて。
切なさや刹那さに乗じて
少しだけ泣いたあの日のことを思い出して。
もっと深く。首を痛いくらいに曲げてみたり。
センチな自分を嘲ってみたり。
涙を出さずに泣いてみたり。


バカみたいに似たようなことをみんなしてしまうのです。
とてもとてもミリョクテキな顔で。
悪戯な水彩画の前で
とても無力に
何色かもわからないいろに染まってしまうのです。


説明できないのに、ちゃんとそこにいて。
みんなをミリョクテキにする夕焼けいろにちょっと嫉妬します。
そのキレイさとそのイイカゲンサとそのチカラに。


イメージカラーが夕焼けいろになるように。
今のあたしの密やかな目標です。

December 17, 2003

ヒトの匂いが、スキ


そもそもの始まりに、あたしがどうしても気になってしまったのは。


そのヒトが
匂いというものを全く持っていなかったからなのかもしれません。


匂いがない、というのは
ひどく奇妙で、
少し哀しく、
でもちょっとだけその無機質な温度に憧れてしまうような、
とにかくヒトとして不思議な状態でした。


わざとあたしに何の痕も残さないように


そう、それは
そんな優しい悪意さえ感じさせるような揺るがない事実でした。

あたしはそれがどうしても気になってしょうがなかったのです。
本当の匂いを、知りたくなってしまったのです。

だからその日。
おんぼろ電車の終着駅で
そのヒトからいつしか、
匂いが放たれていることに唐突に気付いたとき。
あたしは
そのヒトがそうやって匂いを醸すようになったことが
もうちょっとだけ意味なく泣き出しそうになるくらい
とにかく、自分でもびっくりするくらい
ひどくひどく
すごくすごく
ひたすら嬉しかったんです。


懐かしいような、懐かしい植物のような、
そんな匂いでした。
まあ、これは半分デタラメですけど。
だって、どうせ、伝わりませんから。


あなたからはどんな匂いがしますか?


あたしはずっとアンチ香水派でした。
ヒトにはヒトそれぞれ固有の匂いがあり、
それを愉しまずにどうする、と
断固主張していました。
ちなみにあたしは赤ちゃんの匂いがする、と言われました。
ミルクの匂いがする、とも。
自分ではよくわかりませんが、そういうのを聞くのは楽しいし、
なによりなんだか匂いを残すことが
動物的に必要な作業だと強く信じていたのです。


だけど匂いというやつは結構厄介で。
思っているよりずっと密やかに世界を侵食していきます。
気づいたときには、もう手遅れなんです。
視覚やら聴覚やらよりずっと曖昧な嗅覚のその記憶は
曖昧さゆえに
ぼんやりと、そう残り香のように
いつでもゆるく、今日をしばり、
そこにある喪失を静かに浮き立たせるのです。
頼るべき匂いがここに無い、ということは。
そのヒトがいない事実を
多分一番遠廻しに
けれど一番絶望的に
内臓の奥にしこった塊の疼きのように
静かに確かに突きつけるのです。

ヒトの匂いを頼りにしてきたあたしが
その頼るべき匂いを亡くしたときに
行き着いたのは自分を匂いで飾る行為でした。
もともとの自分の匂いは、多分
案外タフな日常生活をきっちりやり抜くには到底弱すぎるのです。


キレイなボトルに収められたいくつかのお気に入りの香水たちは
その種類の異なる甘い匂いで
あたしの混乱をいっそう混乱させることで解決させます。
その作用はいつでも脱力か興奮か
その両極を彷徨います。


香水に助けられることは、もう最近では数え切れないほどで。
ポーチに忍ばせたそのミニボトルは
ピルケースに眠るカプセルと多分とても似ています。

だけどたまに
本当にたまに

鼻腔の記憶が懐かしい匂いをナンカのはずみで思い出すとき

あたしは久しぶりに
混乱を安堵でほぐしてもらいたいと
そういつだって願ってたことを不意打ち的に思い出し
どうしようもないくらい途方に暮れてしまったりします。


そのままのあたしの匂いと
そのままのキミの匂いが


ただここにあればそれだけでいいはずなのに、と。

だから、今は香水に頼っている日々でも。
あたしはなるべく自分の匂いを大事にしたいと思っています。
できることなら、そう、キミが知っていた匂いのままで。
この匂いで、新しい匂いにも、古い匂いにも
いつだって出会いたいと思うのです。


その匂いは、お金ではきっと買えないから。
いつかのときのために、いつまでだって大事にします。


それがあるいはいつか老臭に変わってしまったとしても。
それでもその匂いであたしを
誰かがみつけることができるように。

December 1, 2003

危うく見えそうで危うく見えないとこが、スキ


平然とした日常に潜む
裏切りのような危うい悪戯が好きです。


例えばそれは
ちゃんとしたディナーのテーブルの下だったり
寒いね、とみんなで囲んだコタツの中だったり
落ちたブレーカーが唐突にもたらした意外に短い闇の間だったり
列の後ろの方で少しだけ死角になった曲がり角の先だったり


そんな危うい感じのところで
周りのみんなに気づかれないように
二人だけの秘密を持つのが好きです。
疲れちゃうような長い秘密じゃなくて
くくく
と、
思わず笑っちゃうような秘密がいいです。
そのとき痺れれば。
それで十分なんです。


だから、早く。
いつもそう思います。
さりげなく伸ばした左手をキミが握ってくれればいいのに。
あたしはかすかなサインのようにそれを握り返して
そう
何事もなかったようにテーブルの上の
空回りする議論に参加するでしょう。


何事もないように、振舞うことが、悦びをひたすら加速させ、


だからいつでもちょっとでも
ヒトに見えそうで見えないとき
あたしはあらゆる準備をして委ねてて、


でもなかなかキミは遅すぎて
やがてキミがいなくても
その厭きない期待だけにでも
あたしは少し震えるようになり、


そんな自分を試すように
こんなことを考えながらもなお
少しも気づかれないように平然として、


独りでもささやかにこうやって遊べるようになると。


いよいよ見えそうで見えないとこに
その危うさの心地よさに
ずぶずぶと
はまっていってしまうんです。


November 19, 2003

夜のお散歩が、スキ


暗い夜道をてくてく歩くのには
そう、ちょうど今くらい寒い方がいいと思うのです。

キミが隣にいて
願わくばその小さなポケットに
繋いだ二つの手をぎゅうぎゅう押し込んで
少し息をあげて
唐突に笑ったり
てくてくと
コンビ二で肉まんでも買って
あたしの好きなアイスでも
キミの好きなチョコレートでも
とにかくなんか遠足気分で買ったりして
たまにはでたらめな歌でも歌ったり
いつまでだって

そんなふうに歩きたいと思うのです。


馬鹿みたいにわくわくしながら
横目で車たちが流星のように飛ばすのを見送り
世界中でたった二人
ドラクエでもなんでも
とにかくなんか倒しに行く途中の勇敢なマーチのように
てくてくてくと
昼とは違う街の様相に
たまにはわざと
道を間違えて
迷子のふりしてはしゃいだり
この夜の気まぐれなお散歩が
いつまでだって
いつまでだって

こんなふうに終わらなければいいと思うのです。

多分キミは気づかないけど
キミのその唇に不意打ちのキスをしてやろうと
あたしは小さなコドモのように企みます。
キミのステキなステップを邪魔せずにキスする方法を
てくてくてくてく
歩きながら、考えます。

だけど
夜のお散歩のホントにステキなところは


たとえ左側にキミがいない夜に
こんなことを考えていても

そうヒクツになったりしなくてすむところです。


それは多分
夜が冷たく
ひどく冷たく
だけどそのぶん
ほんとはひどく優しいからです。


そんな夜に包まれてただ歩けば
今はもう遠い他人のキミに
少しだけ
自然と近づける気がするのです。
気負いもなく
哀しみもなく


てくてくてくてくてくてくてくてくてくてくてく。

November 13, 2003

窓越しが、スキ


会わないヒトがいます。
もう会わないヒトがいます。
物理的には会えないわけではないけれど
なんとなく、会わないヒトがいます。
少なくとも、約束を取り付けたりしては、会わないヒトがいます。
大切なヒト。
何人かいます。


彼らとはメールやら電話やらで
気紛れに気休めに連絡をとります。

モノを介したこみゅにけーしょんは
ゴム越しの愛のようにキレイで理性的です。
あたしはいとも鮮やかに
誘い、委ね、茶化し、響き、

無意味な駆け引き。
それはどこにも行き着かない自己充足型のトキメキです。


似たようなことは、電車の窓越しにも起こります。

暗い暗い窓。
景色はぼんやりと闇に侵食されながら超高速で流れ去ります。
疲れきった一日を締めくくるのは大抵そんな電車で、
あたしはひんやりとしたドアに身をなるべく寄せます。


そんなとき。
それは唐突に始まるのです。


夜の暗さが透明だった筈の窓をいつしか鏡のようなものに変え
外の風景に重ねたように、いくつもの顔が浮かびます。
そのいくつもの知らない顔の中
あたしはあなたを選びます。
あなたもあたしを選んだりします。

偶然かも必然かも
どちらかのふりをしているだけかも
でも、とにかく。
あたしたちは目を合わせるのです。
ドアの傍のあたしと、つり革を持ったあなた。
その距離は見知らぬあたしたちにとっては相当なもので
見知らぬあたしたちの間には
何人ものやっぱり見知らぬヒトたちが団子状に連なります。

けれどそのヒトたちを飛び越えて
誰も気付かないよう、そう、窓越しに
あたしたちは恋のゲームを始めます。
合わせてしまった目をどちらから逸らすのか。
駆け引きは始まります。

大丈夫。これは窓越しだから。
あたしたちはいつだって、
外の景色を追っていたと、
最初から見知らぬヒトとなんて目なんか合わせてないと、
そう、いつだってこんなにも自然に言い訳できる。

理性的な言い訳が周到に用意されているのをいいことに、
あたしたちはささやかな無茶をします。
極めて冷静に
あたしたちはしばらくじっと見つめあいます。
駆け引きを、目で。
絡んだ視線はどこまでもリアリティがなく、
同時にどうしようもなくあたしを挑発します。


理性的な欲望も、
乾いてて、簡単で、大人で、楽で、
たまには、イイものだと思うのです。

降りていく知らないあなたの指にわざと触れたいと
手を伸ばし、だけどやっぱりやめる。

階段に向かう姿を明るいホームで
また透明になった窓越しに見て、
もう、会わないんだ、と思うのが
なんともまた刹那的で

揺れる電車の中
取り残されたあたしは独り
笑いを噛み殺し密やかな悦びに浸るのです。

November 9, 2003

たまのココアが、スキ

喫茶店に入ると、
あたしは9割の確率でコーヒーを頼みます。
残りの1割は体調がどうも優れない日で、
そういう時には胃に優しく、紅茶やジュースを頼みます。

そう、要するに根っからのコーヒー党なのです。
一日に必ず5杯以上は飲んでいると思われます。
三度の食事、と二度の休憩。
全部最後はコーヒーで締めます。

それでも。
好きな飲み物を聞かれると、あたしは少し悩みます。


それは、

現実を日々一緒に生きていけるヒトと
夢のような偶然の中でしか会えない大好きなヒトと

その間で揺れ動く気持ちにちょっと似ています。

ココアを飲むことは多分年に数えるほどしかない。
それでもそのあたたかく甘ったるい夢の飲み物は
ちいさいあたしを撫でるように
ぐっと落ち着かせてくれるのです。


たまにしか飲まない筈なのに
ココアを飲んでいる風景はいくつもあたしの中に残っていて。

それはやっぱりココアのように
ひどく幼稚に甘ったるかったり
夢の中の沈まない太陽のようにあったかかったり
それとも逆に
その味でゴマカソウとした外の容赦ない北風の冷たさだったり


でもとにかく。
いずれにしろとてもイトオシイ風景たちなのです。

でもココアは日に5杯は飲めません。
そんなことしたらもう夢遊病者にでもなっちゃって、
夢のクニでも目指して遠く逃避行に出ちゃったりしちゃうからです。
だからこれからも、そう少なくともしばらくは、
あたしはコーヒー党を名乗り続けるでしょう。

だけど。

たまに飲むココアが、やっぱりスキです。


たまには、素直になってもいいですよね。


November 5, 2003

噛むのが、スキ

だだっ広い、世界の果てまで見渡せそうな雄大な草原。

あたしはひどく苦手です。

一人ぼっちただただ滑らかに広がる大地の真ん中に立つと、
あたしは、もう、どうしようもなくなってしまうのです。
まずは皮膚が、そして終には燃えきるはずのない頑丈な骨まで
あたしを構成する全ての細胞、分子、そう、なんでも

その全てが、
「あたし」というようやく集まった一つの身体から
遊離していってしまう感覚に陥るのです。


何とか止めなきゃ、繋ぎ止めなきゃ、
必死にそう思います。
せめて大声でめちゃくちゃに叫べたら、と思います。
声に出して引き止めれば、少しは、、少しは、、


こんな気持ちになるのは、
なにも草原の真ん中に立ってるときだけじゃありません。
巡る日々の中、黒い渦は、いつだってすぐそこにあります。

そんなとき、あたしは声なんてあげません。
無用に注目は集めません。
その代わりに噛みます。
噛みます。
噛んで、その拡散を止めるのです。


それは唇だったり、小指だったり、人差し指の側面だったり、ときには手の甲だったりします。
噛んでてあまりにも不自然なポーズにならないところがいいです。
噛むと言っても、痕が残ったり、ましてや血がでたり、そんな自傷行為は要りません。

必要なのは、その甘い痺れだけ。
甘く、優しく、切なく、際限なくあたたかく。

そう、それはどこか、
ライオンの子が母親に優しく噛まれるときの感じかもしれません。


それともそう、それはどこか、
天国のような匂いのフトンの中で、
誰かに首を絞めてもらったときの感じかもしれません。

甘い痺れは、
もう一度あたしという人間と世界との境界線を教えてくれます。
その甘さは快感となり、
あたしは全てを忘れ少しずつ内側に溶けます。
だるくだるくあまく。
痺れているのは痛いからか夢だからか。
わからなくなってほっとします。

そしてあたしはそうやってほっとすると、
そう、
いつだって少しだけ泣きたくなってしまうのです。

November 2, 2003

ロングスカートが、スキ

友達に
脳にNLSという装置が装備されているヒトがいます。

「ナマアシ・ロックオン・システム」。

要するに、街中でナマアシの女の子を見つけると、
もうどうこう考える前に、目が勝手に

「ナマアシ」に「ロックオン」

してしまうということです。


確かにあたしもナマアシは好きなのだけれど
でもやっぱりロングスカートに魅かれてしまいます。
ちなみにタイトでスリット入りもよいのですが、
できればふんわりしててスリットのないものがいいです。

ロングスカートのすごいところは、ここです。


「隠されているのに、ものすごく無防備」


欺くのです。そしてしなやかに微笑むのです。


長い布が纏わりつく
その隠された脚を想像する手掛かりは
僅かに覗く足首しかなく
それは一見とても保守的な履き物であると言えます。

だけど風の強い日
その裾は、フレアーが入っていればいるほど
悪戯に高らかと舞い上がります。

その危うさは、ミニスカートが捲れるのではわけが違う。

もう、ロングスカートの捲れ方は、

一つの革命であり

儀式であり

魔がさした長女が台所で
給仕と軽やかにステップを踏み踊るダンスの象徴でもあります。

ミニスカートと同じようにすーすーするロングスカート。
ただ
その秘密を暴くには、
いつもより少しだけタガが外れた情熱が必要なのです。
めちゃくちゃな
笑っちゃうような
そんなバカみたいな嵐が。

そう。
彼女たちは、いつも、静かに待つのです。
不条理に満ちた嵐を。


そして、
多分とてもキレイに僅かに口端をあげて笑うのです。
ちょっとだけ、みっともない声を小さくあげて。


November 1, 2003

キミが、スキ

知ってた?じゃあ、知って?
要はね、あたし、それだけなんです。

まあ例えばそう
割にくぼんだりしぼんだりだったりもしたりだったりだけど


けどね
全部開け放って
そう
一番簡単なカタチに戻してあげたら
そしたら
そしたら
これだけだったんです
笑う?かもねー
だって
ねえ
これだけにしたら、ずいぶんと楽しいんです

そう、だから、あたし、いま、これだけで、ここに、やっといる。

ほら思い出すよ
いつだってきっとそうだったんです


スキなもの、数えて?
そうそれだけで唐突にゴキゲンならっきぃすとらいく
「いちにのさん!!」なら「に!」でフライング
いいよ!ねえ!
雨の祝福を受けて
たまにはダッシュしちゃったりね

そう、だから、あたし、ずっと、スキだけで、ここに、やっといた。


だからさ。
しばらく聴いてみて。
そうだねぇ
飽きるまで。


飽きたらまた
そうだねぇ
キスでもしながら
何かいいこと考えよ。
ね。

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