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September 3, 2012

me - mory

なにかを記憶するということはひとつのフィクションをつくるということ

July 6, 2012

cases

case 1. もう正しくは会うこともない年上のきみを想う

またこの季節がやってくる。きみはまた一つ、年をとる。わたしから一つ、遠ざかる。誕生日と誕生日を狭んだ半年の時間をかけてわたしたちは毎年近づいたり遠ざかったりするけれど、結局のところ、わたしたちの距離は、変わらな、い。わたしたちの距離、は、変、わ、らない。むかしは何故か追いつけるイメージを抱いていたのだけれど、どうやら追いつけるのは過去のきみにだということにはたと気づく。現在のわたしは過去のきみに追いつき、未来のわたしは現在のきみに追いつき、時制を超えてしか、わたしたちの距離は、縮まらない。全速力で駆けて、駆けて、駆けて、生き抜いて、必死で生き抜いて、息切れして、脚攣って、倒れながらたどり着いて、そこで気づく。精一杯に伸ばしたこの腕の、その先の精一杯に伸ばしたこの手の、その先の精一杯に伸ばしたこの指の、その先の精一杯に伸ばしたこの爪の、その先を、すり抜けて、わたしが、そこに着いた時には、もう、もう、もう、いないね、いつも、笑っちゃうほどいつも、きみはもう、いないんだね。


case 2. ほんとうはまだ会ってもいない年下のきみを想う

きみはまだしらない。若さというものはそれだけで相手を一方的に傷つけることができるものだということを。わたしだって昔はそんなことしらなかった。若いときはわたしだって、こっちは何もかも、足りなくて、無防備なまま、晒されて、なんてずるいんだ、なんて不公平なんだ、って思ってた。でも違う。それは全く違う。若いということは、それだけで圧勝なのだ。圧・倒・的・勝・利。今はそれがわかる。出刃包丁で胸を抉られるようにわかる。若さをまだ正しくしらないきみは、存在が暴力だと思う。酷く美しい暴力だと思う。きみはまだしらない。だからわたしは注意深くかわす。長い時間をかけて粉々になってもう僅かしか残っていないプライドを懸命にかき集めて、きみのキラッキラした阿呆みたいな笑顔をかわす。射抜くような目線をかわし、伸びやかな指をかわす。きみはまだしらない。夜寝て、朝起きて、それだけで毎日確実に損なわれていくものがあることを。失ってしまったすべてをまだ充分に持ち合わせているきみを一度手に入れてしまったあとの失うことの恐ろしさを。なにかを二度失うときに味わう叩きのめされるような非情な惨めさを。きみはまだしらない。だから、その若さがどれぐらいひとを傷つけることができるのか、きみがいつかそれをしったならわたしは初めてきみをかわすことをやめる。きみに会える。でも残念だね。そのときにはきっと、きみは、もう、若くない。


case 3. また偶然会ってしまっただいたい同い年のきみを想う

駅の雑踏の中であっても一瞬できみだとわかったけれど、どんなテンションで話せば重すぎないか或いは軽すぎないかがわからなくて、しばらく後ろから眺めていた。眺めていたらどうしても触れたくなってしまって、それをごまかすために少し強く叩いて、よっ、という思いつける一番短い挨拶をした。きみはびっくりして振り返って、その顔をひさしぶりに見たらわたしはすごくすごくすごく嬉しくなってしまって、でもそれが伝わったら負けな気がしたから、すぐに前を向いて、次に乗り換える電車の話とかをした。都心の地下鉄の乗り換え通路はいつも途方もなく長いのに、その日に限って短く感じて、もっとゆっくり歩きたかったけれど、おせーよと思われたら癪なので寧ろやや早足で歩いた。ホームに着くときみが乗るほうの電車が早々に来てしまったから、ねえまた会いたい、ねえほんとはずっとまた会いたかったんだよ、って言いたかったけれど、それで今より嫌われたらいやだなと思って結局言えなかった。じゃねー、ばいばーい、とゆるい感じで手を振って、逆方向の電車に乗りこむきみを見送ることもせず、ゆっくりとすこし先にあるキヨスクの影まで歩いて、きみから絶対に見られない角度で、泣いた。

May 28, 2011

弱く醜く足掻くきみを想う

うつむいて悩みこむこと
うずくまって泣いていること
立ち尽くして動けないこと
言葉にできないすべてのこと
言葉にしてしまったすへての嘘
白とも黒とも決められないこと
負けしかないジャンケン




そのすべてを私は


只管にいとおしい、と想う

April 4, 2011

ずーん

3月11日から1週間ぐらい経った頃から、心臓の下のあたりに嫌な気持ちの塊のような、とにかく巨大なずーんとしたものが現れた。それが原因なのか定期的に謎の腹痛に襲われるようになり、それは日を追うごとに悪化した。そのずーんはおそらく最初から巨大だったわけではなく、小さなものがどんどん大きくなっていったのだと思うけれど、とにかく気づいたときには既に巨大だった。まあでも、酒でも飲みながら誰かに話せば解消されるよねと思ったので、それを早速実践しようと誰とどこの飲み屋に行くかまで考えたのだけれど、お誘いのメールを打とうとして、ふと考え、唖然として、そしてやめた。びっくりすることに何をどう話していいのかまったくわからなかったから。びっくり。びっくりしちゃうよねー。だってたしかにそこにあるのに、それについて、全然言語化できないんだもの。


それから考えた。しょうがないからひとりで考えた。その自分が抱えてるずーんとしたものが一体なんなのか。何が嫌なのか。少しでも言葉にできないか。実に考え続けた。考え過ぎてちょっと頭おかしくなって、逆にもうお腹がいつか痛くなくなってしまうのが怖い、痛くなくなったら考えなくなっちゃうから、だからどうしたらずっとお腹を痛くし続けられるか考えよう、とか謎の結論に行き着きかけたりさえした。さすがに引き返してきたけどそっからは。


実はまだお腹は時々痛くなるし、ずーんもまだある。だけどようやくずーんのうちちょっとだけ、言葉にできる気がしてきたから記録しておこうと思う。これは始まりでも終わりでもない、中途半端な場所の中途半端な挨拶みたいなもの。




ずーんを解きほぐして見えた1個目。考えていてわかったのは、私はどんな状況においても「ひとつになろう日本」と言われたり「みんなでがんばろう」と言われることに対してとても違和感がある、いや、かなりの生理的嫌悪感があるということ。たしかに支援の仕方としてみんながテンションを上げて一斉に同じ方向を見て何かを執り行うのはとても効率がいいと思うし「正しい」のだろうと脳みそでは理解するので一応はその波に乗ろうとした。けれど、全体主義的な同調圧力にジャブを受け続けた結果、周囲と違うことをしたり、もしくは同じことをしなかったりすることにうっかりヘドロのような罪悪感や無力感に襲われ、一方で心と身体は全力で、そんなん流されるなんて絶対に嫌だ、こっから一歩も動かない、といって泣き喚きながら脳みそに向かってエンドレスに蛍光オレンジ色のゲロを嘔吐し続けるという嫌がらせ的反抗を繰り広げ、もうぐっちゃぐちゃの蛍光オレンジ色とヘドロ色が混じり合う惨憺たる状況となったわけで、これがずーんの一部を形成したことは間違いないだろう。でももう私は脳みそではなく心と身体に従うことにした。みんなと一緒であれば安心感は得られるのかもしれない。けどね、私はひとりでいることにした。自分で思考し自分で決断し自分で責任を負いたいから。私の行動は私が決める。何をいつどうするかは私が決める。みんなも日本も日本人も関係ない。


解きほぐして、2個目。カナシミが蔑ろにされたり、当たり前のように比較されて馬鹿にされたりするのがとてもとても嫌でたまらなくて、それは喉から血が吹き出るほど破壊的な悲鳴を上げたくなるほどで、でも実際に悲鳴を上げることを自粛して代わりに押し黙っていたら、それはずーんになった。いつだって事件は世界中で起きていてそれは大小さまざまで、パブリックなことプライベートなこと、いろんなことがある。人生には本当に、いろんなことがある。もちろん大きな事件と言われるものはあって、そこには極端に大変なひとたちがいて、誤解の無いように言っておくけど、それには間違いなく胸が文字通り締め付けられる思いをする。本当に。本当に容赦ないと思うし、正直に言って遙かに想像を絶している。でも私が怖いのはセンセーショナルではないことやタイムリーではないことはもう悲しむことも許されなくなってしまっているということ。マイノリティーはいつも見捨てられる。「助かっただけよかったね」「死ななかったんだからいいじゃん」「みんなもっと大変なんだよ」。こういう言葉で潰されていくひとたちがたくさんいる。そんなの絶対におかしい。カナシミは相対化されてはいけない。悲しんでいけないことなんてひとつもない。大切なひとを1人失った子に対して「でもみんなもっと大変だからね」というのは間違っている。ましてやそういう子が「私より大変なひとがいっぱいいるんだから悲しんじゃいけないんだ」と思うのはさらに間違っている。家が流された人と突然首を切られた人とペットがしんだ人と陰惨ないじめにあっている人のカナシミに優劣はないし、被災地のカナシミも東京のカナシミも沖縄のカナシミも世界のカナシミもそれぞれにあって、それぞれ必要なだけ悲しめばいい。大声をあげて泣けばいいし、或いは只管に祈ればいい。一周回ってもう泣くことも祈ることもできないなら、もしかしたら笑えばいい。


みんなが大きな物語の大きなカナシミの塊を見てそこに大きな手を差し伸べるのなら、効率は悪くても、わたしはいつまでも馬鹿みたいな愚直さでひとつひとつのカナシミと愛をもって添い寝することを考えようと思う。みんなが「そんなことよりいま重要なことあるじゃん」、といって見向きもしない、忘れてしまった方のカナシミと添い寝する。今いろんなアートやらなんやらの人たちがこぞって「今こそ●●の力を!今我々にできること!」と大きな声をあげているけれど、だとしたら私はその間みんなが忘れ去っているカナシミとともにいよう。そもそも「今」「ここ」「この機会」以外でもいつでも100%の無防備な愛や祈りとなるのが●●の力そのものだと私は思っているよ。




ようやく少しだけ言葉にできた。こんなこと。こんなことがずーんの中に詰まってた。長かったなー。もう一生言葉にできないと思ってた。


少しだけれど、書いたら、書いたぶんだけ、ずーんが小さくなった。ぜんぶ書けたら無くなるのかな。少しずつ小さくなって見えなくなって、それともどこかで突然無くなるのかな。


でも残りのずーんはこのままにしておこうかな、と今ここまで書いて思っている。言葉にしてしまうと、ずーんのすべては伝わらないような気がするから。少しだけ言葉にして、残りは残す。ずーんは言葉にした分は小さくなったから、多分もうお腹は大丈夫。これでも引き続き痛かったら内科か産婦人科に駆け込むべきだと思う。


残りのずーんは、ずっとずーんのまま取っておこう。そしていつか得体の知れない生物に成長したらいいな、って思う。そうしたらでたらめな名前をつけて飼おう。散歩もさせよう。あと歌も一緒に歌おう。そうしよう。きっとそれがいい。楽しみだな。その日を楽しみに待つんだ。




最後に、被災者の皆様に謹んで、


と最近もらう商業メールの冒頭に「御世話になっております」と同様のカジュアルさで書かれていることを自分も書きそうになったが、やめる。たくさんの名前のあるひとと名前すらまだわからないひとのことを私は想う。数えきれない数と測りきれない重さのカナシミのことを想う。小さいこと大きいことひとつひとつのことを丁寧に想う。息を詰め、目を閉じて、言葉ではない方法で祈る。この震災と繋がっているすべてのカナシミのことを。そして同時にこの震災とはまったく繋がっていないすべてのカナシミのことも。

September 25, 2010

恋をするときのこと

一瞬で恋におちる。いつも。それは必ずしも一目惚れとは同義ではない。勿論一目惚れのことだってあるけれど、そうじゃなくて、たとえばずっと一緒にいたけど全くなんとも思ってなかったひと、ずっと憎いと思ってたひと、そんなひとたちにだって、一瞬が、その一瞬さえあれば、私は易々と、恋におちてしまう。すごくみっともない。制御できないこと、予想外のこと、すごくみっともない。私は絵に描いたバカ女みたいに、ぽかんと口を開いたまま、あらゆる理性を失う。震えたり、声が上ずったり、わけもなく駆け出したくなったり、意味がわからない。ただただあなたのことを触りたくて触られたくて他のことはなに一つ考えられなくなってしまう。そのうえ大変面倒なことに、どんなに大きな犠牲を払っても、そうたとえば予め注意深く構築されてきたキミとの関係性や、他の誰かとの関係性をすべてがらがらがっしゃんと崩し葬り去ることになったとしても、そのことをキミに告げたくなってしまう。嗚呼、真正の阿呆のよう。全部台無しになるし、私には私の人生があってそれはなによりも優先されるべきで、こんな不確定要素に乱されるほど落ちぶれたものではないのだ、と私は頭の奥の奥から憤慨する。


でもね、私はその一瞬が、このくだらなく中途半端な人生において、なによりも尊いものだと知っている。私が他のひとより秀でていることが一つでもあるとしたら、きっと、コレだ。そのことをちゃんと知っているということ。誇れるものなんて何一つ無いけれど、あの一瞬がどれだけ尊くてそして絶対であるかを知っていることに関してだけは、心のなかでいつも、ひとり密やかに誇っている。

July 18, 2010

泣き笑い

いっぱいいっぱい笑っていたら笑いすぎて涙が出て止まらなくなったから「ウケルー。笑いすぎて涙出てきたんだけどー。」と息も絶え絶え宣言して、宣言したのをいいことに、ますます笑ってますます泣いて、ますます泣いていられるよう、只管に全力で笑った

March 14, 2010

i didn't mean to.

わかりすぎてしまうのは、孤独で、かつ、残酷だ。
だから後ろめたくって親切ぶる。ほんの少し犠牲を払っていい人ぶる。

ぶんなきゃいいのにねー。めんどくせーなー。
でもなんか申し訳なくなっちゃうんだよね。わかっちゃったんだよごめんね。


でも誰も気づいてないことにたった1 人で気づくのは、快感ではある。

February 21, 2010

ほんとはほんとになんにも

無防備であることはなによりつよいこと。

ほんとになにも持ってないのに、「持ってないわけないだろー、丸腰で来ないだろー、なんかすごい物を隠し持ってるんじゃないの?裏があるんじゃないの?」とみんな思って、勝手におそれ、警戒する。それはそれはものすごく。

で、ちょっとは負けてみたい気でいたのに、結局気づくとひとりきりで勝っていることが度々あって、それはどちら側も何とも滑稽で、笑うしかない。


じんせいは笑うしかないことばかり。

January 23, 2010

is this it

今日の夜はTHIS IS ITを見ようかなー、と思っていたそれはそれは穏やかな11月の昼下がりに、知り合いの女の子から電話があって、私はとても大切なひとがその日の早朝に突然しんでいたことを聞かされた。それはあまりにも唐突であっけなく、笑えるほどだった。どんな優れた冗談もあれにはなかなか敵わないんじゃなかろうか。ショックも悲しみもなく、とても冷静だったので、そのまま予定どおりTHIS IS ITを見に行ってもよかったのだけれど、喪服はキレイなのあるよな、でも袱紗とか数珠とか誰かに貸してたっけ、あ、あと日曜と土曜の予定を逆にしないと通夜間に合わないな、アポ取り直せるかな、とかいろいろ考えなきゃいけないこともあったので、結局やめて直帰した。

そうして通夜に出て、大人の風情で儀式をつつがなく行い、実感が湧かないまま数日を過ごし、突然カナシミの津波に襲われて、ああ時間差でやってくるのねまた、もうしってるよそんなこと、と思ってもう一人の自分がそれをガチで受け止めたり、そこから回復したり、ふとしたきっかけでまた引き摺られたり、ということを繰り返しながら年を越して、見逃したと思っていたTHIS IS ITがもう一度上映されていたから、今度こそ観に行かなくては!と思い、1月も半ば過ぎてようや意気揚々とマイケルを見に行くこととなった。

私はかなりノリノリで、きっと一緒に歌っちゃったり、周りに迷惑をかけるほど踊っちゃったりしちゃうんだろうなーとライブ感覚ではじまりを待っていた。体力を使いそうだったから、腹ごしらえまでしてから行った。だけれど、いざはじまってマイケルの姿を見たとたん、私は自分でも引くぐらい嗚咽を上げて号泣していたのだった。

この人がもういないということ。ある日前触れもなく突然いなくなって、もうずっといないということ。それはマイケルと同じ50代とは到底思えない、いわゆるおじさん体型で、ぽってりしたおなかをゆさゆささせていた、親父ギャグばっかり言っていた、ちっちゃい子供を扱うように私にやたらとお菓子をくれた、とてもとても大切なひとのことを想起させるのには十分で、どんどんどんどん二人はダブっていった。正確には二人の不在が。「どの曲も知ってる曲だし、細かい指示出しとかプロっぽいし、やっぱこのひと最高のエンターテイナーだな、世紀の天才だな、ほんと同じ時代に生まれてよかったよねー」、っていう感想を持って、家でジャクソン5のCDとかを探し出すつもりでいたのに、私が感じたのはただただ、この人がいない、この人もいない、ということだった。音楽の映画、であるはずだったのに、それは不在と死の映画だった。私にとっては。

それはおそらくTHIS IS IT製作委員会の思惑とも「みたみた~?どうだった?よかったよねー!」と感想を共有したいであろう友人たちの思惑とも完全にずれていて、とても幼稚で洗練の欠片もない酷い感想だった。自分でもびっくりするほどに。でもこの激しい感情は無かったことにはしないことにした。もうだれも私より先にしななければいいのに、と思う。そう思っている割には、他の同年代に比べて明らかに葬式に出席しすぎていて、皮肉なものだな、とも思う。これからもどんどん私よりみんな先にしぬのだろう。大人になったらいちいちこんなに動揺しなくなるのかな、と思っていたけれど、とりあえず30歳現在、そんな実感は全くないのでこれからもいちいち動揺するのだろう。でもしかたがないので、諦める。そうやって動揺しながらたくさんのひとを看取ろうと思う。

January 3, 2010

i know you know it but i know i know better

都合のいい女とか都合のいい男、っていうのはいったいだれが決めるのだろう。


待ち合わせ場所にあらわれたのなら、

私もキミも等しくただの都合のいい男女なのだ。

September 6, 2009

だれかがすこしだけとおくなる

・彼氏
・男友達
・元カレ


とかじゃないおとこのひと。
たとえばキッカケがなければ
もう二度と会ったり連絡したりしないかもしれないおとこのひと。


均衡のとれた曖昧さをいとおしく思っているから
そういうひととの距離に、ひどく敏感で。


とおざかると、それはそれは淋しくなる。


新幹線ならすぐだよね、とか
飛行機だってあるしね、とか
ネットさえ繋がってれば、とかって言えるのは、きちんとした理由があるひとだけ。


たとえば駅のホームでばったり会うことの方がふさわしいふたりにとって


とおざかることは致命的で、かつ驚くほど甘美なのだ。

June 22, 2008

try me, you'll see.

せっかくなので、逃げない。


逃げちゃうほうが、つまらないから。

May 28, 2008

very unfortunately,

とても残念なことに、
あたしたちはすこしずつすこしずつ、
確実に忘れていく。


とても残念なことに、
あたしたちはすこしずつすこしずつ、
そのことを残念だと思わなくなる。




とても残念なことに、
あたしたちのそのすこしずつすこしずつのスピードは、
あたしときみとでは残酷なほどにちがってしまっている。


April 10, 2008

bus

バスはやっぱり不安定だね。レールないし。
飛行機より身軽に気ままにどこかに消えられる。


くらいくらい東京都だかなんだかわからない道を走る郊外のバスに
たったひとりで乗っていると
どこか知らない場所に行ってしまいそうで
わくわくしてどきどきしてたのしくてこわくて
いつも少しだけ泣いてしまう。


でねでね、「次降りますランプ」を押すと
バス中にその赤い光はイルミネーションのように一斉に灯る。
あれはちょっとした見もの。
祝福されているよな不思議な気持ちになって
それでまたあたしは少しだけ泣いてしまう。




泣いてばかりいる夜のバスの風景。


バスは自由で、光に赦されて、泣いてばかりで、夜を巡る。

December 19, 2007

じゃあ相当、美しい。

不満や虚弱さは人生をより美しいものにする


(Francis Picabia)

December 14, 2007

「ウチ、寄ってく?」

「タンメンとタンタンメン、どっちがいい?」

と、同じくらいのさりげなさを装って、そう尋ねてくる男の子に対して、きたきた、予想通りの展開、と思いつつも、意外とびっくりもしてしまった年甲斐の無い自分もいたりして、びっくりどころか永田町駅の階段を駆けあがったあとのような自分の動悸に気付いてさらにびっくりしてしまったりもして、さあどうする?流れに身を任せちゃう?もうなんでもありってことにしちゃう?もうオトナだし。でも果たしてそれがオトナってことなのだろうか。この一撃は、かわしてこそオトナなんじゃないの?でもでもだからといって、一体全体どれほどのテクニックがあればこの状況の中、気まずくならずにかわせると言うのだろう。若さも無いけどそんな高等テクニックなんてもっとない。それに断ったあとのあのしょぼんとしたり、強がってみせたり、無かったことにしたりする男の子たちのあの顔。あの顔をを見てしまっては、きっとかわいそうになってしまい、すぐさま抱き締めたくなってしまう。ダメだ。それが一番ダメなんじゃないの?それにしてもあれはずるい。男の子という存在は実は女の子よりずっとずるい。女の子は確かにずるいけれど女の子がずるいのが常識なぶん、男の子がずるいのは不意打ちで、だからこそもっとずるいのだ。ああああ、今それ関係ない。考えろ、考えろ!そうこうしている間も、男の子はこちらを見てる。高速でヒートアップするあたしの脳細胞活動も知らず、男の子はまだこちらを見てる。きっとあと1秒もしないうちにどちらかは目を逸らしてしまうのだろうけれど、さてそれはどっちか、きみかわたしか、それによって勝負は半分決まるという見方もできて、そうなってくると迂闊に視線も外せないわけなんだけど見つめ合っていられるほど神経も丈夫ではなくて、言葉も出ないわ、目も動かないわで、フリーズ、してるみたいじゃんこれじゃあ、と嘆いたり焦ったりで、いよいよ事態は大詰め、タンメンか、タンタンメンか、どちらかを答えるかのようにちゃんとさりげなく答えられるか、あるいはジャージャーメン!と小悪魔的対応でかわすだけのスピードに今ちゃんと乗れているか、それともいい具合に微笑んだり、適度に照れたり、もしくは怒ったり、言葉じゃなくて目で殺す?コロシトク?さあ、どれでいく?どれがいい?迷っているうちにカウントダウンが始まって、いい予感か悪い予感かわからないドキドキで、混乱する脳みそで、夜は暗くて、今日は寒くて、パンツは黒で、明日は休みで、占いは見てなくて、運命は信じてて、めんどくさくて、もはや面白くて、でも、だって、もう、さあ、さあ、さあどうする、どうする!!!!!

November 27, 2007

i'm always here for you as long as you're not here.

はじめから、いなければ、それいじょう、なくせない。




ていう、ありがちな、まけおしみ。


(でもたまに、そのただしさにうちのめされたりもする。)

November 26, 2007

yareyare.

「死ぬのは必然で、しかも偶然なんだもん。」


(いとうせいこう)

August 17, 2007

かみさまをもらった。

かみさまをもらった。


デパートの白く光る誰もいないエレベーターホールで、あれはエレベーターを待っていたのか、なんだったのか、もはや思い出せないけれど、とにかく天井から私の腰の高さぐらいまである大きな窓のそのフレームに浅く腰をかけて呆けていた私を目がけて、どこからか少女は走り寄ってきた。とてもかわいらしい少女で、くっきりした二重のきらきらとした大きな目は、目の見本のような目だった。透明感のある茶色い毛。小さい子の髪の毛は、いつから太く黒くなってしまうのだろう。風に流れて茶色とモスグリーンの間をいったりきたりするその髪の色を眺めながら考えた。


「これあげる。」


少女はそう言って、大事そうに握り締めていた手から素早くそれを私の右手に移した。右手のひらが、ひんやりした。そっと盗み見ると、それは灰色で楕円形のやや平べったい石で、角は無く、きれいに丸みを帯びていた。彼女が秘密裏にそれを受け渡すので、なんだか堂々と手を広げてその場で見てはいけない気がした。突然のことに、私はわけもわからず彼女をじっと見た。見れば見るほど、数日前、いや、いつか、どこかで、偶然に出会ったことのある少女のような気がしてきた。でもどこで?何も思い出せない。


「ねえねえ。名前なんていうの?」


少女の名前を聞いたのだが、石の名前のことだと思ったらしく、彼女は石を指差して答えた。


「かみさま。」




小さな子に突然石を手渡されることまでは割合と平常心で対応できたのだが、さすがに少し動揺した。かみさま。かみさま。しかも彼女がそういうと、雲が流れたのか、窓から光がざあっと差込み、エレベーターホールは光に溢れた。窓の下の方で光に出会い、木々が揺れる。そういえばここは何階なんだっけ。


そうじゃなくて、そうじゃなくて、あなたの名前は?


そう聞こうとしたのに、私が動揺している隙に少女はいなくなっていた。


私の手には、かみさまだけが残された。




8月、白いエレベーターホールで、私はかみさまをもらった。


August 7, 2007

time me.

一瞬と永遠と、どちらの方が長いんだろう。

June 9, 2007

i can't draw this world.

むかしむかし
ちいさいころの絵のじかん

空や地面や光や空気を

いったいどこまで描けばいいのかいつもわからなかった


わからないまま

おとなになった

ちいさいころの、絵のじかん。

May 28, 2007

what do you expect?

あわよくば、のうちが華。

April 16, 2007

sweet sweet obsession.

囚われ続けることの甘さに囚われ続けること(の甘さに・・・)

March 16, 2007

lost

迷子は、自由だ。

February 25, 2007

エプロン

エプロンを、するほどのこと。

February 14, 2007

we can always dream for a little while.

たまに会う、好きなひと。

January 7, 2007

おめでとう、おめでとう、おめでとう。

2006年、密かにあたためていたテーマ。


遍在。
孤高。
透明な死。


2007年はそれに


丸腰の勝利。


をとりあえず加えます。これからもいろいろと加わるでしょうけど。


去年は波乱万丈でした。今年もその予定。
新年早々、鮮やかに軽やかに、いろいろなものを台無しにします。






会いたい人は会いにきて。
会いたくない人はきっと偶然会えるでしょう。




happy new year to lots of lovely people.

September 3, 2006

plan-on-no-plan


「自分でも知らないことに身を任せることにしました。いつの間にかプランを立てるのは辞めてしまったのです。」

(ピナ・バウシュ)

August 17, 2006

思えば、すべてはここから始まった。





寒い。暑い。寒い。暑い。寒い。暑い。寒い。暑い。寒い。暑い。暑い。寒い。寒い。






東京の夏はこんな感じです。だるい暑さと内臓を冷やす寒さと。その間であたしたちは感覚を麻痺させて、ネオンを星と間違えて生きていくのです。身体を壊しながら。少しずつ少しずつ、手遅れになりながら。












手遅れ。なんていい言葉なんだろう。


June 20, 2006

台無し。これ特技。

"Life is what happens to you while you are making other plans."
「人生とは、何かを計画している時起きてしまう別の出来事のこと。」

(星野道夫)

thanks to Y.S.

December 5, 2005

水が流れる場所。

川でも雨どいでも、自然界に於いて水が流れる場所には、ほぼ必ずルキセニア[lukisenia]が生息する。ルキセニアの生態は長らく解明されていなかったが、近年多数の地道な実地調査の結果、水場、特に流れのある水場にはほぼ100%生息しているだろうと考えられている。しかしながら未だ謎は多く、研究者の間では「幻惑の生命体」と呼ばれている。極めて弱いルシフェリン‐ルシフェラーゼ反応が観測されその存在が知られるようになったわけだが、未だ正式分類にも様々な説があり、混沌を極めている。ルシフェリン‐ルシフェラーゼ反応自体も微弱なため、流水上に見られる煌きを光の反射であると主張し続けている学者が今もって少なくないのも事実である。ルキセニアが何故水が流れる場所に生息するのかは未だ研究中であるが、最新の研究では、穏やかな湖面でも浅い水溜りでも、何らかの衝撃でその水に流れが生じると、ルキセニアが発生することがわかっており、更には、人体内に取り込まれた水分に人体内で流れが生じたときにも発生(もしくは潜伏後発生)する可能性があり、注目を集めている。一説には、体内で異常繁殖したルキセニアこそが若年層、特に思春期の若者が患うという原因不明の動悸、浮遊感、のぼせ、焦燥感、と関係があるのではないかとも言われており、人体への影響について、現在世界各地で日々研究が進んでいる。


December 3, 2005

アカイハナとのしての一日。


そう、最初に光など見えない。漆黒が徐々に徐々にその重みを減らし、やがて群青に、やがて白に。濃密だった空気が軽やかに拡散し、そして、朝。朝が、来る。知らぬ間に東の空が散らすのは面としての光。柔らかな薄い赤オレンジ色に、眠たげな世界を起こす。あたしは少し億劫になりながらも夜の粘る記憶をゆっくりとゆっくりと、必要以上の丁寧さでもって振り払い、またしても太陽で区切られた新しい一日をぼんやりと想う。そう、朝だ。朝。朝。


太陽が表情を変えながら照らす間、あたしのからだは自動的にその恩恵を惜しみなく受ける。厭う、厭わざるに関わらずいつでも心なしかシャンと姿勢が正されるのは、生理学的に考慮すればきっと宇宙的法則の中に組み込まれた一つの微細な論理の欠片として揺るがない説明のつくことなのであろう。現実的に生き抜くための現実的な作用。からだはあたしが想っている以上に多分正直だ。それでも雨の日を只長く欲望するのは、その滴りが光とともに現実作用の両輪を成すからではなく、腐朽への恐怖を抱えながら醜悪に膨張する細胞や、不安定に揺らぐ土壌を差し引いても、やはり濡れるアカが戦慄的にエロティックだからだ。ときに凶暴なほどに殴りつける雫一つ一つに大きく撓りながら、あたしは危機の淵でいつだって微笑むだろう。


太陽の照る日も照らない日も、いずれにしろ無関係に風は気紛れに撫でる。あたしはその天才的な緩急のつけ方に感動する。絶対的な悦びの中であたしは震えるしかない。激しく渦を巻き吹き荒ぼうとも、それもまた一つの優しさの形。太古よりの遺伝子は囁く。そう、それはひたすら与える。そこにあるのは風とあたしという点であり、その間を繋ぐのはひどく一方的な矢印の筈なのに、あたしたちはそんな悲劇的な形は捨てて、替わりに丁寧な線をひく。そう、風はいつでも地平にある全てを平等に撫でる。そこには区別すらない。ひたすら与える。只悦ぶ。やたら喧しく羽根の音を鳴らす虫々によって、綺麗に発色したアカを舐めるように品定めされ乱暴に吸われるとき、あたしは決まって風媒だけで生きられたら、と夢想する。無論ギブ・アンド・テイクも、その簡潔さ故割合性に合わなくは無いのだが、然しせめて虫々も、もう少しだけでも知的な吸い方をできないものかと想う。妄想は留まる事を知らず、あたしは彼等の冒涜にじっと耐える間中、風媒花である自分の一生分の物語を緻密に作り上げる。けれどもその物語を紡ぎあげた後になっていつも、あたしはそしたら色褪せるだろうこのアカと、崩れ逝くであろうこの繊細かつ悠然と広げられたカタチを慈しみ、思い留まる。退化は無情だ。この世界に於いて美しさは取引の条件に過ぎず、それ以上でもそれ以下でも無い。ならば耐えよう。むしろ逆手に取って狡猾に惑わし利用し尽くそう。あたしの思考はいつも一回転し同じ地点に落ち着く。いつものことだ。そう結論づくとあたしは一層自分が艶を帯びるような気がする。全ては一つの荘大なゲームで、あたしの思考すらそれに含まれているのかもしれない。だとしても構わない。あたしは鮮やかにアカく、風は官能的に撫でる。充分だ。


寄り付く虫々の顔ぶれが徐々に変わる頃、世界はまた色に染まる。夕暮れだ。その色は日々調合師の機嫌によって変化し、けれどいつでも確実に美しい。同じ日の夕暮れであっても、その色は時間の経過とともに変化する。所謂夕暮れ的な暖色で構成されたような明るみも悪くないが、その夕暮れから夜に変化する過程のあの深い藍や紺碧の空がひどく好きだ。このアカは暗めの空によく映える。丁度その薄暗い空が濃密さを増す頃、東の空には月がその姿を現し、星も点々と瞬き始める。然し夜はその訪れを月や星や暗さではなく、いつだってそのしんと引き締まった空気で知らせる。冬でも夏でも夜の空気の持つ根本的冷酷さは同じだ。いかにすればあのように空気を分子の状態に分解し、更にそこに整然さと毅然さとを同時に孕むことが出来るのだろう。然し凛とした暗闇の中で起こることは全て逆に何故だか無用に纏わりつく。絶対的孤独を見せつけられたあたしたちにできることは、解り合えぬままそれでもじっとりと距離を縮め、巧く騙し合いこの夜をやり過ごすことしかないのだろう。独りの夜は続き、あたしは羽根を休めた虫やそよぐ斜向かいの細長い草々と踊る。なるべく艶やかなリズムで。踊る。踊る。踊る。

同じような一日は一日としてなく、全く違う一日も特にない。繰り返される一日は多分ひどく似ていて、けれど何かが決定的に違う。朽ちるまでそれは繰り返され。永遠などという陳腐な言葉さえ使ってしまいそうだが、それは恐らく刹那と同義だ。とりあえずあたしは咲き誇る。世界に対峙するようにこのアカを。アカを。咲き誇る。もうすぐだ。ほらもうすぐ。太陽がまた新しく一日を仕切るだろう。咲き誇れ。咲き誇れ。咲き誇れ。咲き誇れ。咲き誇れ。咲き誇れ。咲き誇れ。咲き誇れ。咲き誇れ。咲き誇れ。咲き誇れ。


June 23, 2004

昨日と今日と明日の違いについて。


昨日が一番たちが悪い。
明日だってそりゃ、不確か以外の何物でもないけど
だけど明日の不確かさは自明で
あたしたちはだから希望と不安の入り混じった聞き飽きたお得意の声で
「明日!」と言う。「明日…」と言う。
だけれども本当は昨日だって明日と同じくぐらい不確かで。
なのに過ぎ去った過去は記憶というカプセルに入れた途端、確かなものとして語られる。
知ったか顔で、世界を証明する。
「覚えてる」「忘れない」「見た!」「聞いた…」
全て認識という認識は勘違いかもしれなくて。
あたしたちはカプセルの中身を自分に気づかれないように大胆にいじるのが天才的に巧い。
そう、昨日は危うく不確かで。
本当はあったかどうかも、よくわからない。
昨日、って、本当に、ありました?
わからない。わからない。わからない。はずだ。
わからないといえば、でも。
じゃあ、今日っていつのことを言うのか?
昨日はいつ今日になって今日はいつ明日になるのか?
この瞬間は実は今日じゃなくて昨日なのか?
カラーボールを投げたのは今日でも手の中に戻ってくるのは今日じゃなくて明日なのか?

May 13, 2004

平衡感覚。

バランスが崩れたのは世界の方だ。


April 27, 2004

確信

I'M SURE I'M NOT SURE.


April 26, 2004

imagine

しゅるり。分裂と融合。繰り返す。アメーバ?不確定。しゅるり。しゅるりとグライドする。そう、大いなる浸入。カタチある液体。ただの固体は不自由で。ただの液体は頼りない。カタチある液体。ゆっくりと。でも鮮やかに。その僅かな隙間から。しゅるり。しゅるり。確実に滑り込む。グライド。グライドする。時にただ浮いていたりもする。飛んでいる一つの形。浮遊。ただ留まり漂うこと。そこが全てのスタートで。そこから滑らかに飛んでいること。もしくはグライド。しゅるり。グライド。グライド。しゅるり。しゅるり。そしてやがて救う。器官をもたない塊としての身体。触手はどこ?その細胞全部で。そう、救う。ふりをして巣食う。巣食う。巣食って、救う。分裂と融合。不定期に飛ばされる胞子。気まぐれに。だけど永続的に。胞子は飛ばされる。土をむやみに柔らかに。柔らかに。柔らかに。それが巣食われているという証。分裂と融合。しゅるり。しゅるり。グライドは続いて。しゅるり。しゅるり。しゅるり。


December 1, 2003

待ってない。吸ってるだけ。


タバコ1本分の期待。

October 16, 2003

わかった。


やっばい
叫びたい
叫ぼう!
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

永遠の日直のキミへ。


ねえ、これは
もう始まってるキミへの宣戦布告の途中の告白だ 。


October 12, 2003

久しぶりの挨拶

アイカワラズ、イキッパナシ?

June 2, 2003

だから

足りないよ。全然。足りないよ。繰り上げても無理だよ。

March 27, 2003

まあだだよ。まあだだよ。


でも、ちいさく名前を呼んだんだよ。


そう、とてもとてもちいさくね。


とてもとてもとてもそう。ちいさく。

March 9, 2003

春眠暁を覚えず

誤解は生んだモン勝ちで
ほらなんかわかんないけど天気だっていいし

白昼夢ってことにしてさ
もう全部アリにしよ?


いいから。もう。
いいよね?まだ。

January 16, 2003

愛すべき不穏な月


ねえねえわざわざざわざわするよ
ひとがみんな魚になってく


なんだってそんなにチェリーパイが食べたい?


して?
もっとイメージ
ほらおいしそう。


なんてね
そんなわけないじゃん

期待したぶんマズイよきっとね

ロッキングチェアで酔って
酔い痴れて少し泣く

何だろう。思い出してはいけないもの。
思い出せなくなったもの。

あー
もうめんどくさいよ
じゃいきなり結論


今夜あたしを迎えに来て
毛並みのキレイなラクダでね。


簡単なことだよ。

あたしたちは、もう、そこにはいないのだから。



December 28, 2002

四次元ポケットも足蹴にするから。


おもひでに堆く積もった埃も
おおきなクシャミ一つですぐ吹き飛ぶ


時間のラベルを全部剥がしたら
どこからどこまで今かわかんない
あたしの今がまだあの頃の今だとしたら


そりゃたまにはギリシャ人に敬意とか払う気になるね

いや、いかれてないって
ただほらもう時間とか忘れよう

出来ない?じゃあしょうがない
とりあえず眠りなさい
そして長い夢を見なさい
短い時間で長い夢を
その短さや長さもわからなくなるくらいに

ねえいいでしょう?
あたしたちは時間を超える

なんてね
気障な希望的観測


いいじゃん
年末だしね

総決算のスピードで逢いに来ても

December 11, 2002

ニクマン、ニクマン、ニクマン。

あたしも関西弁、うまくしゃべれたらよかったな。


そう、ゆるくて、ぬるい、やつ。


October 20, 2002

絹切り超。


一年前に吸ってたタバコがあって
それはあたしが普段吸ってるヤツに比べたら
比べちゃいけないほどマズくて
でもそのときはそれなりに美味しくて


久しぶりに吸ったら
余計マズく感じて


なんかすこしだけ哀しくなりそうだったから
「きっと空気のせいだ」
って口に出して言ってみた。

効き目?
あるかな

わかんないけど、そんなこと。


でもマズいタバコまだ何箱もあって
(だってカートンで買ってきちゃったもんね)
だからまだまだ吸う。


そのタンビに
よりマズくなるんだろうなあ


そう思ったらちょっと面白くなって
嘘だけどふきだしそうになった

昔みたく空き箱にいっぱいくだんない落書きして
エイって投げたら

届くかな?
届くといいな

ちゃんとナイスキャッチしろよ、甲子園気分でさ。

September 2, 2002

ナツノオワリ。


この夏最初で最後の花火は
気が付けばカジになって

そのでたらめなウツクシサにあたしは嫉妬する
すんごく嫉妬する。


んでもこれもチイサナカジか
ってあたしはライターで火着けたよ


ケムリはちょっとあたしのご機嫌を直しました。

July 16, 2002

松原君。

松原君だった。

あたしは、名前なと覚えてはいなかった。
ただ
その名を聞いた瞬間に、あたしは、知ったのだ。
紛れもなく松原君であることを。


松原君は現世ではネコになっていた。
あたしがそのネコに出会った時点ではあたしは何もわからなかった。
松原という名前を聞いても、その存在の強烈なけれど優しく、爽やかな空気以上に、具体的な関係性は何一つ思い出せなかった。

松原ネコは、しょうがないなあ、と言いながら、
おもむろにビデオを見せてくれた。
ちっちゃいヒト科のあたしと、ちっちゃいヒト科の松原君だ。
それからもう一人、松原君の幼馴染。
あたしはからかわれてばっかのその幼馴染のために、
松原君を懲らしめようと、棒をもって町中を駆け抜けてた。
古い町並み、神社、橋、工事現場、バス停。
あたしたちの駆け抜ける風景は、どこかのようであり、どこでもないようでもあった。

しばらくすると、
異様に目の大きいフランス人がでてきた。
あたしが気味悪がっていると、
「この頃フランスでは、もともと目が大きい人でも、目の両端を何ミリかづつ切って、目を大きくするのがとても流行っていたんだよ。」
と教えてくれた。

混乱しながら見つづけると、
どうやら、このビデオは映画で、あたしと松原君は、映画の一部だったということがようやくわかった。子役というわけだ。

あたしは目が疲れたと言って、
それからしばらくして、観るのをやめて、テレビのスイッチを切った。
松原君は、さっきビデオを取りに行ったときに左前足をおかしくしたらしく、一度足をいとも容易く引き抜いて、調整してからまたさしこんでいた。
「え?機械なの?」と聞くと、
「いや、そういうわけでもない。生きてるし、あったかいし。」
ふーん、とあたしは少し納得のいかないままひんやりとしたフローリングの床にぺたりと座った。


ぼんやりしてるあたしをみて、
松原君は、とことこ寄ってきた。
あたしたちはそしてとても長いキスをした。
ネコの舌って意外と長いのね、と思った。

July 5, 2002

親切な他人で十分

捨てられる用意ならいつだってできてる

拾われる用意ならいつだってもっとできてる

May 21, 2002

オニはだあれ?


みつけてもらうために、かくれんぼ。

May 16, 2002

アカイイト

左手の小指がある日突然痛いとする。
今まで何処でも経験したことのない痛みを、
これまた左手の小指なんていうわけわからんところに感じるとする。


それが運命のアカイイトのせいだとする。
そいつが小指にきっちり結ばれちゃってるとする。
そんでもってそんなんにきりきり引っ張られて痛んでるとする。


だとするとそれは、アカイイトが強すぎるから痛むのだろうか


それとも、アカイイトに逆らってるから痛むのだろうか




この先にいるのは、ほんとうにキミなのだろうか

April 10, 2002

CURIOSITY KILLED THE CAT.


I just needed some fantasies.


November 17, 2001

今日は嫌


この国は、眠い国です。
ここに13年以上住んでるボスは、
「きっと空気が薄いのよ」
と、
わけのわからないことを自信満々に言いますが、
とにかく眠いのです。
そしてまたすごいことに、
着いた初日から、あたしは毎晩必ず夢を見ます。
しかもかなり鮮明に。

その中でも強烈だったものの話をします。
人の夢の話は退屈だということはよく知っているので、
かいつまみます。

そのときあたしは、男約2名の相反する言動に、ひどくひどく、疲れきっていました。
それは、週に2回は行くところなのに反対方向のバスに乗ってしまい、
その事実に40分以上も気づかないほどの重症でした。


その疲れがピークに来た日に、
あたしは日本で一番かわいがってた猫とつきあってる夢をみました。
しかも猫は女声でした。
しかもあたしたちは英語で会話してました。
しかもあたしたちはSMごっこをしてました。
国際的獣姦レズSM。
こうやって言葉にするとなんだかどろどろしてますが、
全編藍色がかっていて、静かなヨーロッパ映画のような夢でした。

あたしは彼女を密閉袋にいれて、空気を少しずつ抜いていくというゲームを考え付きました。
その日は外が雨だったので、


そうすればあなたのきれいな白いカラダに泥もはねないし。死なないようにちゃんとした仕組みもついているのよ。


と、絶対喜んでもらえると思ってはりきって報告しました。


でも彼女は興味なさそうでした。
聞いている間ずっと窓に痕を遺す雫たちを眺め、
その冷たい横顔に、あたしは涙がとめどなこぼれそうになるのを押しとどめることで精一杯でした。


もうダメだ
そう思って、


嫌ならいいんだよ、なんかちがうことをしよう
何がいい?あたしどっちでもやるよ


とあたしが言うと、
彼女はゆっくり振り返ってこう言ったのです。
そして、何故かこの言葉だけ日本語だったのです。


「今日は嫌」


あたしはこの言葉に、雷鳴に打たれたように感動したのです。
今まで何度と無く使ってきたこの言葉に。


今日は嫌。今日は嫌。今日は嫌。


なんて美しい配分で絶望と希望が混ざりあっているんだろう。

大した言葉ではないし、今まで何度だってきっと使ってきた。

けれどはっきりと、あたしの体はたしかにそのとき震えたのです。
ありとあらゆる美しいものと
ありとあらゆる相反するものに揺られて。


今日は嫌。ということを、有効に口にできるオンナになろう。


あたしは目覚めた瞬間、思ったのでした。

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