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March 2006 アーカイブ

March 31, 2006

春風が、スキ

向かい風と追い風なら、あたしは向かい風の方がスキだ。


向かい風の中歩くのはとても気持ちがいい。
手の込んだオールバックは恥ずかしいしみっともないけれど
自然派オールバックはとても便利。
髪が顔に纏わりつかないから視界がクリアだし
肌を擽って(これ、「くすぐって」って読むんだね)痒くなることもない。
とにかくスッキリして気持ちがいいのだ。


向い風の中、大股で風に体当たりしながらリズミカルに歩を進めると
自分が今、自らの意思と能力で着実に前進していることが風の抵抗によって実感できる。
吹き付けてくる風が強くて、少し呼吸が苦しくなるのもなんだかドラマチック。
中世のお話の騎士のつもりであたしは風に一人立ち向かう。
このスピードを崩さなければ、きっと世界を手懐けられる。
そう夢想し、意地になり、駆け抜ける。


向かい風が吹くと、あたしは途端に強くなれるのだ。


あたしは一人で
そして奇跡的に自由で
世界と闘って、そして勝つ。


向かい風はあたしを試し、あたしはそのゲームに乗る。
その先に待つ、あの無敵な感じ。
一人で強くあることは、とても気持ちのいいことだ。




一方追い風は、ひどく厄介。
そこそこの追い風はすいすい進めて気持ちいいのだけれど
強い追い風には不穏さを感じるのだ。
そのまま流されると、渦のようなものの中にに引き摺り込まれるような。
気を抜くと叩き落とされるような。
隙を狙われて、足元を掬われて
そのままぽっかりと空いた虚空の穴のようなものに、すとん、と容易に落とされるような。


胸騒ぎ。


ざわざわざわ
と心の中が音を立てる感じ。
実際追い風は不穏な音を現実に立てながらゆっくりとあたしたちを襲う。
(そう、向かい風はもっとビヨーンとかゴウキュルーとか楽しげな音を出す)
きっとスキーでジャンプしてる人たちはきっとわかってくれるはず。
追い風が、のしかかる、あの感じ。


追い風は変な感じ。
でも?だからこそ?
その胸騒ぎや、落ちていく感じ、ざわざわ、や、すとん、といったあの感じ。


あの感じは、とてもセクシーな感覚だったりもするのだ。


それはたとえばエレベーターが下降する瞬間や
荒波の日に縦揺れを起こす船がやはり小さく落ちる瞬間にも似ているけれど
いずれにしろ、あたしは「あの感じ」に弱く、カラダの奥の方が勝手に蠢く。
カラダの中から、すとん、と宇宙が抜け落ち空洞ができたのか
それともその空洞が宇宙によって埋められたのか
どっちにも感じられて、どっちかわからない感じ。


それは確かにとても官能的で、あたしはぞくぞくして、
そのぞくぞくが、気持ちいいことなのか悪い予感なのかどうか判断がつかなくなって
その感じにまたくらくらする。
実際は、追い風に吹かれているけなのだけれど。


追い風のセクシーさ。あたしはつい、目を閉じる。
落ちるという感覚は、本質的に快感に近いのかもしれない。






なーんていろいろ書いてみたけれど。




春風の前では全てが無効。
もう、向かい風も追い風も無い。


春風はとかく全方向から吹いてあたしを混乱させるのです。




髪はぐちゃぐちゃだし、目はしょぼしょぼだ。
肌も乾燥するし、顔を歪めるからどうしたって不細工になる。


そうしてあたしは混乱する。


何に立ち向かい、何に溺れればいいのか、もうわからない。
あたし何キャラだっけ?
強いんだっけ?セクシーなんだっけ?
自由なんだっけ?不自由なんだっけ?
1人?2人?それとも3人?
もう拠り所がどこだったのか、皆目検討もつかないのだ。


それはひどくはがゆく、苦しいこと。
どのストーリーもあたしをその気にさせてはくれない。
どっちもありで、どっちもなしで。
とりあえずお家に帰りたいのに、方向がもうわからない。




けれど。
春風の混乱は一流品なので。




その混乱はある風速を超えると
もう突拍子が無さ過ぎて、みんな笑うしかなくなってしまう。


女子高生のスカートは飽きるほど捲れ、
おじちゃんのカツラは飛ばされ、
自転車は蛇行し、
ゴミはカミサマからのプレゼントのように舞う。




全てはコントで、あたしたちは笑う。
世界は温く、人生はギャグで、あたしたちはこの混乱に身を委ね、笑う。




そして風は吹く。


笑いつかれたあたしたちの舞台に花びらが馬鹿みたいに舞うから
キレイとか通り越して、ほら、もう何も見えない。




春は、そんな季節。


全ては、春風のせいで。

March 19, 2006

夜の冷蔵庫が、スキ

冷蔵庫は孤独だ。




割と騒がしく、たくさんのものたちがひしめきあう台所の中
やたら大きい直方体は、ただじっとひんやりと冷えている。
大抵は隅に。でなくとも大概は壁際に押しやられている。


その四角さとその冷たさ。そしてその清潔さ。
そこにある孤独と、その孤独さと同質の静謐な光。


冷蔵庫がますますその孤独さとその魅力を発揮するのは夜だ。
できれば深夜がいい。
闇はなるべく深い方がよくて、季節はできれば真夏かそれかいっそのこと真冬がいい。
(それか変な夜。季節とは関係なく何かに火照る、それか凍える夜。)


しん、と、した夜の中、そう、多分そういう場合、台所の電気は消えていて、とても暗い。
音は全くしなかったり、案外窓の外からは喧騒が聞こえていたりするかもしれない。
けれど部屋の中から発せられる音は無い。
その中で冷蔵庫は低く唸る。ジジジジジとかブーンとかヴィーとかズーとか。
床は微かに振動する。それは気まぐれに止んだりもして、そのうちまた始まる。
その機械音は余計に孤独を際立たせる。
不思議なもので、音を立てている冷蔵庫がお喋りではなく寡黙なのだということは、予め定められていたことのように何等疑いの余地無く理解される。




ドアに手をかける。
ヴォワッサみたいな音が、マグネットを引き剥がしたときに聞こえる。




その四角の扉を開けると、そこは光の海。






煌々と放たれた光は
一瞬だけ、そうだな、多分ちょうどその眩しさに目が慣れるまでの間ぐらいの時間。
ちょっとだけ、希望みたいなのに見えなくもない。


そこには日常に即した食料品が無造作に並んでいて
何かを取り出そうと思うけれど、特に食べたいものもない。
けれど、閉めてしまうのがもったいなくてしばらくはそのままにしてみる。
食料品は美しい。食べかけでも賞味期限を少し過ぎていても。
そこには日常がある。
けれど同時に、ただ陳列されて鑑賞の対象となった日常は、非日常にもなる。




白い光は差し続ける。冷蔵庫は全てを冷やし続ける。暗闇の中で、ただひとつ。


そうしてあたしは、冷蔵庫は孤独だと思う。




気が済んで、ドアを閉める。
そのまま冷蔵庫にぴたりとカラダをつけてずるずる座り込むと
意外とモーターはあたたかいことを知る。
そのあたたかさを感じて、余計にあたしは泣きたくなる。
なにも考えないことはできないものか、と考える。


けれどたぶん、あたしは実際には泣かない。そしていっぺんにたくさんを考える。




そうしてあたしは、冷蔵庫は孤独だと思う。




大きな直方体と、光と、冷たさと、あたたかさと、唸りと、沈黙と、夜。
孤独な夜の冷蔵庫。
それはそれは美しく。
この夜を当たり前のように支配する。
その孤独は全てを呑みこみ、全てを受け入れる。






冷蔵庫は孤独で、この夜と、そして全てのちっぽけなひとたちを赦す。

March 6, 2006

ありえないことを待つのが、スキ


オペレーターが出るまで変な保留音を聞かされて3分待つのは嫌い。
ATMの列で10分待つのは嫌い。
歯医者で30分待つのは嫌い。
バスを1時間待つのは嫌い。
鳴る筈の電話の前で2時間待つのは嫌い。
帰ってくる筈の人の家の前で夜中6時間待つのは嫌い。


なのだけれど、どうしてか。

ありえないことを待つのは、結構スキなようです。

まさかなあ、ありえないよねーと思いつつ。
けれど無根拠な確信を持って、なにかをただただ気長に待ち続けるということ。
それはある意味では残酷でまさに途方が無い。
けれど、ひとつ言えることがあって。


こうしておけば。

少なくともあたしは
待っている間は死ねないのだ。


そうやって生きてきた。あたしはこの何年間か。
ひたすら待ちながら、ちゃんと見つけてもらえるようにいろいろ小細工もした。
「いつなの?」とは聞けないから、自分でその「いつ!」を決めた。
こうやって決めた「いつ!」は強い。
元々根拠の無い、あたしの冴えない勘に頼って設定された待ち合わせ日は
疑うべき根拠も無い分、自立していて、そして完成されている。絶対なのだ、つまり。

26歳になったら。
26歳になったら。
あたしはずっとそう思ってきた。
26歳は奇跡が起きる年。なんとなくそんな気がして、そのままそればかり信じてきた。
こんなにも普段ぐじゅぐじゅと理屈をこねくりまわしているあたしが
何故そんなことに確信を持てるのかは知らない。
ひょっとしたら、生きるための手段なのかもね。

それにね。
実際、強く願えば叶うのだ。
これ、ほんと。騙されたと思ってやってみてよ。

もちろんそれでもそりゃさ。
待ってたところで、
どっかの連ドラの最終回みたいに全てにハッピーハッピーな決着がつく訳じゃない。
だっておバカなあたしたちは。
慢性満足デキナイ病という難病を抱えていて
叶えられた奇跡、の、その先を期待する。
あわよくば、あわよくば、そればっか。


そうして
たくさんの後悔と混乱と虚脱感を抱えて
幾ばくかの浅ましさとふしだらさと計算高さに気づかないふりをして
夥しい量のアルコールと睡眠薬代わりにルルを体内に注ぎ込んで

「嗚呼、世界は、またひとつ、こうして崩壊した。」

と呟いたり、あるいは叫んだりして嘆く。

けど良く考えたら、もうほんとは十分祝福していい筈なんじゃない?
ありえないことが起きたこと、と、それまであたしが生き延びたこと、と。
すごくない?すごいよね。ダブルだよ。2倍喜んでいいんだよ?

そんなわけなので。
やっぱりあたしはありえないことを待ちながら生きていくのがスキなようです。
それは言い換えれば、漠然とした根拠の無い希望というものなのかもしれない。
具体的な希望はさ、ほら、
抱いたその7秒後には、きっとひどく具体的に、そしてあっけなく潰されてしまうから。


だからあたしは懲りずにまた待っている。
ぼんやりとした希望を抱きながら、またありえないことが起きる日を待っている。
遠いいつの日か、そうだな、今度はこんな春先の夜がいい。
その日まで、あたしはまたてくてくなんとか生きていく。


見失われることの無いように、いろんなところに痕跡を残しながら
崩壊させられるために、次の世界を少しずつ組み立てながら

ただただ気長に待つのです。
たまには待っていることすら忘れて、まどろみながら。


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