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August 2005 アーカイブ

August 29, 2005

曖昧な関係が、スキ

あたしには

彼氏と恋人と愛人とダーリンとセフレと大事な人と運命の人と命の恩人とパートナーと友達と仲間と同志と師匠と双子とお兄さんと弟とパパと息子とペット

がいる。

これは、各肩書きに1人ずつ、と思ってもらってもいいし
各肩書きに3人とか17人とか複数人いると思ってもらってもいい。
全部の肩書きを持つたった1人のスーパーマンがいる、と思ってもらってもいいし
そもそも真っ赤な嘘だと思ってもらってもいい。


正直なところ、あたしにもどれがほんとうなのかは、よくわからないのです。


人を、特に男の子を人に紹介したり、説明したりするとき。
あたしはいつだって本当に途方に暮れてしまう。

「彼氏です」は、「つきあおうよ」って言っていないと公然とは使えないらしいし
(なんかそうみたいだよ)
「双子です」は、血縁的にそうなんだと思われて無駄に場が盛り上がってしまうし
「友達です」は、なんかこう物足りないし
「師匠です」は、どういう意味で師匠なのかについて30分くらい説明しなくちゃいけないし
「愛人です」は、そもそも白昼堂々宣言することに違和感を覚えるし

なにより、そんな一言で。
それもそこらじゅうにうんざりするほど落ちている一般名詞で。


あたしと、あたしの人生にわざわざ踏み込んできてくれた人との関係を
そんなそんなそんな当たり前の一言なんかで易々と括ってしまいたくないのです。

あたしと、キミとは、1対1で向き合って、関係性を築きあげて、


そう。


それは、粘土細工のよう。
2人の真ん中に置かれた粘土の塊で
ぺたぺたと2人きり、一緒にナンカの形をつくりあげたのに。
その形を見て勝手に
「蝶だ」とか「リボンだ」とか「春だ」とか言いたくないんです。


たとえ途方に暮れるあたしを心配した優しいキミが
名前をつけてしまうことに同意して、

「そうだね、じゃあこれは蝶だね」

って親切に保証してくれたとしても。
あたしはなんだか
スコーンと内臓が深海の暗闇へと引っ張られて落ちていってしまうような。
絶望的な哀しみに襲われるのです。


もちろんあたしだってもうなんだかんだで四半世紀生きて
うまくやってくためにはそんなことも言ってられないってこともよくわかっています。

こんなこと言ってると
遊ばれるだけの都合のいい女になるとか
(この「遊ばれる」の定義もイマイチよくわからないけど。)
紹介するたびに長々と2人の歴史を喋っていると紹介される側は辟易するとか
(酷い場合は、本題に入る前にいなくなる。)
相手を深く傷つけてしまったりするとか
(名前をもらうと安心だから。名前をもらえないと不安だから。それは最近ようやく実感を伴って少しわかった。)

それぐらいは学習しました。

だからあたしもスマートに。
「友達の○○くんです」とか、「彼氏の××です」とか。
近年は腹を括って言うことにしています。
でもやっぱり言った後はすごい気持ち悪くてむずむずするし、いちいちストレスが溜まる。

諦めの悪いあたしはそのむずむずに耐えられなくて

「友達っていうかなんていうか…」とか
「一応彼氏ってことになってます」とか
「精神的セフレといった存在ですかね」とか
「言うなれば文学的な意味での恋人という概念に一番近いかと思われます」とか
「双子かと思うくらい手相が似ている仕事仲間なんですけど気持ち的には師匠のように敬っています」とか

やっぱり余計なことをくっつけてしまって
なんだかその分余計にぐったりするのでした。


でもこうやって、ああでもないこうでもないって
そんな風に悩むほどに、曖昧な名前のつけられない関係の方が
ずっとステキで、ずっとずっとイイと思うのです。
そんな曖昧な関係の方が、きちんと1人1人が大事にされてるはずだと。


だからあたしのことも、
「彼女」とか「友達」とか「妹」とか、躊躇わずに言わないで欲しい。
同じくらい傷ついて同じくらいもがいて同じくらいあたしについて考えて欲しい。

ありふれた関係も、ありふれた名前も嫌いなのです。

それにそうしておけば。


世間の常識とは関係なく、自分ルールの関係性がつくれるのです。


「友達にはキスしない」とか
「一番尊敬できる人を彼氏にしなさい」とか
「仲間に手出すなよ!」とか


よくあるじゃん?そういうの。


そういうの全部。鮮やかにすり抜けたい。


すり抜けてキミと2人でお腹を抱えて笑っちゃいたいんです。

「なんなんだろ、あたしたち」
「なんなんだろーねえ」
って

笑って揺すった肩をぶつけながら手を繋いで。
追っ手も全部振り切って、笑いながら逃げ切りたいんです。


こんなことも、そう。
曖昧な関係のステキな人たちに、あたしはかつて、教えてもらったのでした。

ありがとう。

August 12, 2005

痕残しゲームが、スキ

結局のところ
ずっと同じ場所に同じ人といるなんてことはもう全然信じられないわけで
遅かれ早かれまた飛び立つのだと思うのです。
いつだってそう思うのです。
あたしかキミかあなたかモリモトさんかムックンかキョウコかハヤシダくんか誰か。
まあ誰でもいいんだけど。誰でも。
どっちが先かの競争のように
あたしたちは、どちらからともなく、きっと、

いなくなってしまう。

確かにそれはずっと先のことかもしれないし、明日起こることかもしれない。
もう起こってたりして。
けれどそれはあたしとキミだけの問題じゃ実はなくて、
つまりはヒトだけでなくて、

サヴァイブするということは、つまり失い続けていくことなのです。


「しかしですね。失うぶんだけ得るものがありますよ。」
「ほら、得たもの。そっちについて考えましょう。」


だよねー。ですよねー。


でもね。
失った代わりに得るものは、たとえ失ったものと等価だとしても
決して失ったものそのものではない。


それはごまかしちゃいけないと思うのです。


とはいえこんなことばかり鬱々と考えていても体力も抵抗力も免疫力も落ちて
しまいには肺炎なんかになっちゃうので。
最近これをゲームにしてしまうことを思いつきました。


名づけて


「痕残しゲーム」。

どうせ失うのなら。
いっぱい痕を残してやろうと。なんにでも。
つまりはどうやってうまく痕を残せるかの研究です。

あたしが「それ」を喪失したあとに
それでも「それ」があたしのことを思い出さずにはいられないような。

そういう、痕、を、「それ」に、つける。
最後の意地のような、悪戯のような、プレゼントのような、そんなもの。


縄師のような技術と賭博師のような大胆さとナノなんとか研究家の精密さとマリーの浪漫を
持てれば最高なのだけれどそうもいかないから不器用ながらいろいろと画策して
日々突き進むこの痕残しゲーム。
これは相手がヒトだとそれはそれで難しいし
ヒトで無い場合にはヒトで無いなりの独特の難しさがあります。
けど痕の残し方に拘ることは楽しくて美しくて醜くて。
そしてどうやら、あたしは自分がこれが割と得意な気がしてきています。


たとえば
吸殻が世界中の何百銘柄の中で最も美しいカールトン1mgを吸い続けていることも
最後の瞬間に手を伸ばせば届きそうなように長くこの髪を伸ばしてきたことも
忘れ物が多いことも、掃除が適当なことも、噛み癖があることも、
自分の数々の特性がようやく生かされるような気がして割りと
ウキウキなわけです。

特技は?

「お華と、お茶と、痕を残すことです。」
「昔はカヌー部だったんですが、最近は漕いでなくて。今は、痕を残すことです。」
「バイオリンを20年、サックスを6年続けています。あと最近、痕を残すことを始めました。」


ちょっと言ってみようかな。とか。思ってると。ほら。
楽しくなってきませんか。

ほら、実力を試したくなる。

喪失が、待ち遠しくなる。


でも面白いところは
ほんとうに痕に残るのはきっと全然違うとこなんだってこと。


それにもっと面白いところは
痕を残される準備はしていないはずなのに

きっとそっちの方がずっと多いって、こと。


そして今度は裏切られることが楽しみに変わる。

このように。

喪失の準備は、手が込んでいればいるほど、そのあとの楽しみがきっと増すのです。
(哀しみが減るのではないよ。楽しみが増えるのです。哀しみは、そんなに簡単に減らしてはいけないのです。)


ほら。ちょっと一緒に。やってみましょうよ。なんだか腹立たしくなったのなら、特に。

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